儘ならないグランス
季節のあるこの大陸において、いよいよ本格的な夏の様相を見せ始めた太陽の光と共に、学生たちは揃って衣替えを行う。それは、貴族や名門家系といったある一定以上の社会的地位と金を持つ自費生にだけ設定された期日である。才能や努力を認められて入学を果たし、国から援助を受ける奨学生らは、支給される制服を夏冬一着ずつしか持たない。そのため特に汗で汚れる夏の制服は着用を免除されていた。
深刻な差別化だと糾弾する大人たちを尻目に、当事者らはどこ吹く風と一様に冷静である。私服の利便性は、若い彼らにとってそれだけ重要な要素なのであった。
そんな衣替えに浮き足立つ自費生クラスの片隅で、座席にふんぞり返る不遜な男がいた。長袖のワイシャツをカッチリと着こなす様は、息苦しいことこの上無い。夏服に溢れる講義室で、そこだけ空気が違う。
中心にいるギルベルト・バイルシュミットはニヤニヤと余裕ぶった笑みを張り付かせていた。
「ギルベルト…冗談は頭の出来だけにしてよ…」
「バカかてめぇ。俺が連中に合わせる義理がどこにあんだよ」
「義理は無いけど決まりはあるでしょうよ」
「ちょ…決まりとか言うなよ…うっかり従っちまうだろうが!」
「何なのお前は」
数少ない友人の一人であるフランシス・ボヌフォアの物言いたげな眼差しは、ギルベルトの額に汗をかかせたが、彼の口を割るほどでは無い。ふらりと目線を反らすと、長い指先が神経質にリズムを刻み、長袖に覆われた腕を叩いている。それを視界に捉えながら、聞き覚えのある足音に気付いたフランシスはふと顔を上げた。百人規模の講義室の左端に隠れる様に座する二人に、その軽い足音が駆け寄る。
フランシスはギョッとして、挨拶もせずに叫んだ。
「トニまで!何なの?流行りなの!?」
「おはよー」
「おう」
「フランシスどないしたん」
「何で私服!自費生でしょお前!」
「うん、まぁいいやん別に」
「よくないだろ!」
詰め寄るフランシスの形相を肩を押して遠ざけながら、言い訳を考えるのも面倒なのか切って捨てる様なことを言うアントーニョ・フェルナンデス・カリエドは、確かに上から下までシンプルな私服姿である。その表情は有無を言わせない満面の笑みだ。
ふと二人の視線を集めたギルベルトは、悪い目付きを更に悪くするように眼を細め、鼻を鳴らす。
「いいかフランシスよ、芸術家が細けぇこと気にすんじゃねぇ」
「黙れ鳥頭。こいつ服なんかまるで頓着しないんだから、制服の方が良いに決まってるでしょ」
「あんなぁ実は…」
「さっきから聞き捨てならねぇんだがお前さっきから俺のこと馬鹿って言ってね?」
「そんなことより鳥ベルト君」
「夏服無くしてしもてなぁ」
「俺は鳥じゃねぇし仮に鳥になっても絶対可愛くかつ賢鳥に決まってるだろ!!」
「何だよ賢鳥って…ってアントーニョ君」
「はい?」
「今なんて?」
「制服無くした」
「お前、それ何回目だよ…?」
気の抜けた口論の合間に聞こえた証言がようやく届いたらしい。心配を眉間の皺に表したフランシスの顔が、これでもかと近づく。眼前に迫る空色の瞳の真摯さに耐えきれないというように反らされた視線は、不服そうに頭を撫で擦るギルベルトの横顔に向けられたが、か彼らの視線が交わる気配はない。そんなアントーニョを真っ直ぐに見ていた碧眼が、よく喋る口がふと閉じられ移ろう視線が定まらない様子に、物言いたげに眇られた。
「トニ?どうした?」
「ん?あぁ、大丈夫や!今日教会で代わりの借りることなったから、明日からはちゃんと制服やし」
「…あ、そう」
噛み合わない視線に歪んだ表情はほんの一瞬だった。僅かな沈黙を陽気な声色が破った途端、二人の間にあった奇妙な焦燥感は跡形も無く霧散したが、代わりにフランシスは何も言えなくなってしまう。いつだってあらゆる思惑を飛び越え、終いには受け入れてしまう、そんなアントーニョの性質を見てきた彼にとって、あまりに確かな拒絶に思えたのだ。
そこでちょうど始業のベルが鳴り、生徒が一斉に席に着く。釈然としない表情でフランシスが列の左端に移動しはじめたのを機に、アントーニョはホッと息を吐いて腰を下ろす。先程までわざとらしく蚊帳の外にいたギルベルトが、頬杖を付いた掌で口を覆いつつ小声で呟いた。
「また秘密かよ」
「知らんでええことやろ」
「知ったら超怒るぜ」
「うん、別に、そんなんは良いねん…ただガッカリされたくないってだけで」
「……」
「意気地なしやろ?」
「馬鹿野郎が」
黙っていたことにではなく、フランシスにとっての自分の在り方、幼少期を共に過ごしていた二人が、互いに築き上げてきたものが崩壊すること。それによって彼が現実に気付いてしまうことこそが、真実を口にしない最も重要な理由なのだ。アントーニョはかつての二人をぼんやりと反芻する。小さなてのひらの頼りない様子。自分を頼ってくれるフランシスは、彼にとって掛け替えのない存在だ。親も家もなく、自分が何者かも解らず行く宛てのない不安に押しつぶされそうになっていた子どもが、初めて見つけた居場所だったのだから。
誰も見ることの叶わないその胸の内をゆっくり空気に吐き出し、しかして彼は笑った。いつも通りの自然な笑顔で。
その視線の先には、朝焼け色。
「お前は俺の知る中でも一等馬鹿で勇敢な男だぜ」
仕方ない、そんな様子で心配する三白眼の優しさに、彼は笑ったのだ。