ハルモネア
もうこれ以上頑張るだなんて到底できないと思った。
俯いた途端鼻の奥がどうしようもないほどツンと痛んで、はは、泣きそうだ、とひとごとのように思う。
からだは強い、思いでできているから。
在校生に卒業生、思われれば思われるほどに、社会的な認知度が高ければ高いほどに、四肢の輪郭は明確に、五感は強く鋭くなる。
もうずいぶんと長いこと、生きているような気がするけれど。
それでも何十年経ったって薄い皮膚のした、左胸肋骨の内側、こころは嘘みたいに柔らかく、あっさりと傷ついてしまうから。
最も強く必要としているのは、間違いなく心の強さなのに。
もしもこころを取り出して眺めることができたなら、明良のそれは何度も何度も懲りずに同じ傷をつけて、すっかりかさぶただらけになってしまっているだろう。
あるいはその波打つような真紅に未来永劫消えない白い傷跡を残しているのかもしれないけれど。
もう痛みは麻痺したと思っていた。これ以上痛むことなどないと思っていた。
もう知りつくした、だなんて。
そんなことはなかった。だって今、こんなにも辛い。
「ぎゃはは有り得ねぇー!どこからどう見たって超熱烈な愛のコクハクだろ、それ!!」
「だーかーら、そういうんじゃないって言ってんだろ!?しつこいぞ政春!!」
「あーれ、電波の具合が悪いみてぇだな?」
先ほどからじゃれ合う政春と早太が視界の端にちらついて煩い。黙って欲しいと思っているのに無駄に高いプライドがそれを許さず、口元は中途半端な笑みを浮かべたままだ。
あまつさえ先ほどまで、自分は政春に加勢をしていた。そう在るべきだと思ったから。
それが明治大学、竹治明良のキャラクターだと、頭のどこかが身勝手にも“正解”を弾き出したからだった。
「こんのバカ春っ!!」
「はははは!!“別にあいつのためにめかしこんでるわけじゃないんだからな!”」
「死ね!!いいから何も言わずに死ね!!」
「僕は死にましぇ~ん」
「ネーターがぁー古いっ!!お前それ歳ばれっぞ!!」
早太の振りかぶった拳が政春の紺色の頭にクリーンヒットしている。頭を抑えてのたうち回る政春はバカだ。それを眺めて、勝った!なんてガッツポーズをとっている早太もバカだ。
そんな早太が好きな自分が、本当は誰よりも、大バカものなのだ。
早太が真っ赤に頬を染めるのが、誰のためだか知っている。
一喜一憂喜怒哀楽、その理由が本当はすべて、彼にいきつくのだということを。
誰よりもきっと、早太のことを見てきたから、気がつかずにいられる理由もなくて。
知っているのに、見ないふりをしていた。
今度こそ、今度こそ、今度こそ。
何千回何万回こころの中で繰り返した諦めるための呪文。
もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら。
何万回何億回繰り返す、諦めの悪い、情けないわめき声。
愛されるより愛したい、だなんて大人ぶってみせても、所詮これっぽっちも救われやしないのだ。そんなこと、ずっと前から気が付いていたはずなのに。
傷跡がやがて模様になるほどに、一部になるほどにそれすらも愛せればいい。そんな強さを自分は持たない。
持てない。
「……どうした、明良」
不意に下から覗き込まれて思わず肩が跳ねる。普段は殆ど高さの変わらない位置にあるはずの政春の顔。
なぜだか辛そうに眉をひそめている政春の顔を、そういえばこんなにまじまじと見つめたのはいつ以来だろうか、と明良は一人ごちる。
すっと通った鼻梁に気の強そうな眉、意志の強そうな目許も、こうして真面目な顔をしていれば慶介までとはいかなくても、そこそこに見られた顔立ちをしているのに。
「い、いやお前が静かだと気味悪ぃっつーかさ、ほら、嵐の前の静けさ?的な?」
政春は可愛い女の子にとても弱いし、恋愛に関してとても単純だ。少なくとも明良にはそう見える。
政春の恋はいつだって一直線で、全力疾走の猪突猛進で周りなんか見ちゃいないほどで、だから政春に恋される女の子は幸せだろうな、と明良はいつも考えているのだけれど。
考えているだけだ。政春に、そう、伝えたことは一度もない。
そうしてそのひたむきさはどこか、早太にも似ている。そんなはずがないのに。
「なぁ政春」
不意に口を開くと、政春が僅かにたじろいだのが分かった。先に話し掛けてきたのは自分の方なのに。
「な、なんだよいきなり」
「愛するのと愛されるのと、どっちがいいと思う」
長いことそれは明良のなかに漂っている疑問だった。
自分に好意を抱いてくれる相手がいないわけじゃない。こんな風に報われないことばかりを続けるよりも、そちらの方が本当はずっと幸福なのかもしれない。
明良の問い掛けに一瞬虚をつかれたような顔をした政春は、それから呆れたようにぐしゃりと顔を歪めた。
「なーに言ってんだよ!そんなん愛し愛されが一番じゃねぇか!」
明良のくせになに小難しいこと悩んでんだよ。バカじゃねーの。
ご丁寧にでこピンまで頂いたそれに、気付けば条件反射で口を開いていた。一瞬その笑顔に見とれたなんて、一生の不覚だ。
「バカとはなんだ、お前みたいな脳内年中お花畑のぱっぱらぱーとは違うんだよ!」
「なにおぅ!?テメェ人が珍しく心配してやったのになんだその態度!!」
「政春に心配して貰うようなことはありません、俺の心配するくらいなら自分の身のふり方そろそろ考えたらどうだ、この前も東女にフラれたって?」
「な、おま、誰から聞いた!!」
とうとうつかみ合いのケンカになった二人を、いつの間にか蚊帳の外になっていた早太が苦心して引き剥がすのはまた別の話。
そんなバカみたいな言い合いのうちに鉛のようだった明良のこころが軽くなったことも、政春がその笑顔に心拍数をあげることも、今はまだ別の話。