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Joy to the world

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「ハイ、クニヒロ」

なんの前触れもなく親しげに呼び掛けられ、東京大学、東国宏は木枯らしの吹きすさぶなか冷えたアスファルトからゆっくりとその面を上げた。
眼前の人影を認めて小首を傾げ、今日の日付に思いを巡らす。
果たして誰かと約束をしていただろうか、それより先にこの少年は誰だったろう。
歳の頃は京坂都よりまだ若く、波打つブロンドが小造りな頭蓋を覆っている。躊躇いなくファーストネームを呼んでくるあたりとその容貌を重ね合わせてインターナショナルスクールのたぐいだろうかと結論付けてから、国宏はそれ以上相手を思い出すという困難な作業を放棄した。
この手の連中は正直なところ苦手だ。会話の脈絡も、物事の進め方も、国宏と逆のベクトルに位置している。
そうして名前も知らないような相手にこちらは名前からなにから随分と細かく把握されている、という事態は、国宏の場合特段珍しいことではないのだ。けっして気分のいいことではないけれど。

「ボレアスが疾く駆ける季節になったね」

地中海の青を掬ったような、コーラルブルーを僅かにすがめて歌うように続けた少年は、調子はどう?と肩を竦めた。
ボレアス。頭の片隅の引き出しをひっくり返して馴染みのない単語のソースを探す。
なにかの神話だということまでは思い出したけれど、正確な部分までは思い出せなかった。
反応の薄い国宏を一向に気にする様子もなく、少年は一方的な囀りを続ける。

「The time has come,さぁシーズンの到来だ!クニヒロのところは今年ももちろん激戦区なんでしょう?」
「……うん」

問い掛けを無視するわけにもいかずに僅かに数秒逡巡してから、国宏は鷹揚に頷いた。
この埃くさい冬の空気が更にきりきりとひき締まる頃には、入学試験の真っ直中だ。
少子化にも関わらず昨今の難関大学の志願者は増加の一途を辿り、学力の階層分離は年々激化、煽りを受けた大学側も、統廃合、あるいは改革に余念がない。

「くっだらないよねー」
「……なにが」
「今の日本の、entrance examの、ひいてはeducation system自体が、さ」

吐き捨てるような語調から一転、歌うように軽やかに彩られたその内実は、けっして穏やかなものではない。
常に体制側に身を置く国宏にとってこの手の発言は受け入れやすいものではなく、国宏の纏う空気の硬化を知ってか知らずか、それでも少年はその囀りをやめない。
冬枯れた空気の流れを目で追い、指先でそれをなぞっては笑う。子どもじみたしぐさは彼の容姿を裏切ることをしないけれど。

「僕らは学びへの熱意に、知への探求に対して報いるべきであって、モラトリアムの延長なんかに使われるべきじゃないんだ」

そうして少年は敵意のない、そのくせ悪意にみち満ちた笑顔でもって、国宏に向かってほほ笑みかけるのだ。
ねぇクニヒロ。

「日本の学生たちはさ、いったいなにがしたくてあんな神経磨り減らす暗記まみれのテストを受けるの。世間さまの根拠のない大学ハイエラルキー信仰のため?就職の篩から逃れたいから?そんなのっておかしくない?僕らは経歴に箔をつけるための道具じゃないだろ」

少年の言葉を笑い飛ばすことは容易い。
入学試験を通過することが出来るだけの努力を、一定期間に積み重ねることができる。あるいはそれに集中し、他を切り捨てて時間を消費し、目標を実現する能力がある。
自身の能力を明確に示すために、この仕組みに意味がない、だなんてことは、けっしてない。
大学名自体がそれを示す簡略な指標になっているというのは疑いようのない事実であり、現に国宏の育てた学生たちの処理能力の高さは目を見張るものがある。
実績があってこそのこの評価だ。与えられた最高学府の名に恥じないそれ。

「なんで途上国の子どもを何十人と救えるお金でもって講義を受けるの。そのくせその講義もそっちのけでバイトや遊びに精を出す学生が多いのはなんで。どうしてそれがまかり通るの」

耳が痛いな、と国宏はぼんやり考える。この少年の告解は自戒なのだろうか。或いは断罪なのだろうか。
綺麗ごとといえば綺麗ごとに過ぎる。けれどもそれは確かに本来そうあるべき姿、の一面ではあった。
Education.東は舌先で少年の澱みない発音を思い出す。
元はラテン語のeとducereから成り立つこの言葉は、英訳でdraw outとでもすればいいだろうか。
能力を引き出すこと。大学と学生の、互換的な責任性。目的論的思考の行く先。

「パンセは言った。考えることによって宇宙を飲み込み、宇宙は私を包み、一つの点のように飲み込む」
「……思考こそ道徳の原理である」
「That's right!目的もなしに四年間、無為な時間を過ごそうだなんて頭が悪いにもほどがあるよ!」

けたけたと笑声を上げながら、笑うことのないコーラルブルーが国宏を見据えている。

「ねぇセンパイ、僕たちの意義は?学びの機会なんて今の時代どこにでも転がっているものでしょう?知識ばかりは海のようだ、ネットでもいいし、書籍でも構わないんだからさ。求めよ、さらば与えられん」

下手をすれば自分たちの存在それ自体を根本から否定してしまいそうなセリフをあっけらかんと口にして、少年はブーツの爪先でアスファルトを軽く蹴り飛ばした。
内側に爪痕を残すささやかななわだかまりを溶かそうと、国宏は浅い息を吐いて呟く。

「……悲観的なんだね」
「そうじゃないよ、懐疑的……批判的なんだ。Critical thinkingって、この訳で合ってる?……要するに、僕が疑って疑って疑ってかかるのは、詰まるところそれを信じたいからだよ」

なにを、と問うことはしなかった。
教育の価値を、学生の熱意を、或いは自身の存在意義それ自体を。
単なる知識ではないはずの学びを。
敬虔な信者のように真摯な顔で、それでもやはり拭えないほど挑発的に、少年は瞳を色濃くし、東を見据えて言い放つのだ。
感情の波が荒いのは性来の気性にも思えるし、その齢のせいなのかもしれない。国宏にしてみれば、どちらでも構わない。
受け止めて、返す。

「……なら、その答えは君が……君の生徒と一緒に、探すしかないよ」
「そりゃそうだ」

まったくと言っていいほど拘りも執着も見せず、すとんと頷いた少年は、なんだ、せっかくこんなに遠出をしたのにもう帰りたくなってきちゃったじゃない、と不満そうに頬を膨らませた。
些か拍子抜けの感を拭えない国宏を見もせずに、軽やかに口笛を吹いて踵を返す。

「おいでケルベロス、みんなのところに帰ろう」

木立ちの間から走り出てきた大型のシェパードを傍らに、言いたいことを言うだけ言った、そんな体の少年は、バイバイクニヒロ、よいお年を、と、その見た目にそぐわない挨拶を投げて、嵐のように去っていった。

「……結局なんだったんだろう、あの子……」

奇人変人大集合、自分大好きの引きこもり。
作品名:Joy to the world 作家名:梵ジョー