もしもの時が。
もしもの時が。
もしものもしもの戯れの
言葉の切れ端、漂って
いつかいつかは花開く
形はどこに、捨て置こう
1
もしも、という言葉は便利だ。
起こらなければそれでいい。起こった時には、ほんの少しばかり予習ができる。
「斬りませんよ」
だからその返答に、あれ、そうなの、と疑問が私を埋め尽くす。
斬る人だと、理解していた。
例えそれが私であっても。
黙ったままの私の気持ちを察したのか、ふう、とたっぷり息をついて。
「斬りたく、ありませんよ」
そう言って、その口は開かなくなった。
ああ、うれしい。
こうも、大切に思われていたことが。
けれど。
「もしも、そうなったら」
「加世さん」
「斬って、くださいな」
それが貴方の使命で。
私はそれを理解しているつもりだと自惚れている。
そうなった時でしか、私がどうするかなんて分からないけれど。
もしもそうなったとしても、私は貴方に笑顔だけを向けていたい。
だって、仕方が無いでしょう。
貴方へのその気持ちだけが、私の心を支配しているのだから。
2
その身体はもう空っぽだった。否、中身が無くなったのは己の方か。
金色に輝く己の身体。だが、その手足は動かない。
出来ると考えたから、いつものように振舞えた。
その刃を振り下ろせると決意したから、形も真も理も手に入れた。
だが、やはり、己も人だったということか。
「は……」
「笑っている場合か?」
小田島の、落ち着いた声が投げかけられる。
分かっているとでも言いたげな、こちらの気持ちを全て酌んでいるかのような目が気にくわない。
「モノノ怪は、居てはならんのだろう」
「ああ。早く斬らねばならん」
「そうだな。確かにそうだ。なら……」
その続きを、小田島は顔を背けることで取りやめた。
今度は、舌打ちを隠さなかった。
3
前も同じだったな、と小田島は思う。
同じことしか出来ないのだと、札に囲まれる中で改めて痛感する。
きりきりと迫る、加世だったものの爪。
彼女の身の丈ほどの長さもあるそれを、薬売りは剣でなぎ払う。
この世の全ての色を集めて、輝かせたかのような刃。色が四方に飛び散る光景は、四季に咲く花を眺めているかのよう。
小田島は居住まいを正して、その幻のような光景を見守った。
己の役目は見届けることしかない。気づけば、あとは腹を決めるしかなかった。
たいして、時間はかからなかった。薬売りも、覚悟したのだろう。
加世のような黒いそれは、動きを止め、ぼろぼろとその形を崩し始める。泣いているのだと、気づいてしまった。
息が、つまる。荒くなった息に、思わず胸を押さえる。
何をしている、と己を叱咤する。この閉じられた世界の中で、一番苦しいのは彼らであって、己ではない。
流れ続ける涙。光。血。色。迷い。心。
そして涙が、斬られてゆく。
4
白い鳥が飛んでゆく。
その姿は遠く、鳥だと分かるだけの形しか見えない。
どこへゆくのか。どんな思いをその身に乗せて。
そして、目の前の男も。
「ここは通さん」
「……小田島様」
「たとえ、斬ってでも、止めるぞ」
小田島は道の真ん中で、薬売りと正面から向き合う。
だが、それ以外のことはしない。刀も腰に下げたままだ。
「何が望みですか。これ以上、俺に何を望みますか」
「誰も、不幸にならない話を」
「俺は、不幸しか与えられませんよ」
「だとしてもだ」
薬売りは動かない。長く垂れた前髪で、表情は見えない。
行こうと思えば、いくらでもこの男は己をかわして逃げ出せるだろう。
だがそうしないでいてくれるのならば、まだ望みはあった。
「共に、居てやってくれ」
「俺が居さえしなければ、いいんですよ」
「なら、もしも」
突然、ぐらり、と薬売りの身体が前につんのめる。
背中に飛びついてきたのは、当然。
「もしも、向こうから追って来たとしたら、どうする?」
間に合ったかと、小田島はようやく表情を緩ませた。
何故、このぬくもりがここにあるのか。
捨てるべきだと、振り払うべきだと、心臓が破れそうなほど警鐘を鳴らしている。
それが一番良い方法だと、今回のことで嫌になるほど理解した。
なのに、薬売りは動けないでいた。
剣を抜いた直後も、動けなかった。ああ、同じだ。こんな同じことを繰り返すような人間なのだ。
だから、頼む。行かせてくれ。
黙ったまま、されるがまま抱きしめられる青い背。加世はしばらくそこに顔をうずめていたが、やがてゆっくりと顔を上げる。
いろんな気持ちが、渦巻いていた。
「薬売りさん」
「はい」
それは、自分勝手な気持ちもあれば。
「怖かったです、とても」
「はい」
相手を思いやる気持ちもあれば。
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
「はい」
ただひたすらに、泣き出したい気持ちもあれば。
「もう、嫌だと思いました。全部、消えてしまえばいいと思いました」
「はい」
けれど、その気持ちの全てを取り払った最後に。
「貴方が居てくれて、よかった」
決して偽りなど出来ない心だけが残っていた。
――ああ、この言葉さえ伝えられれば。
後はもう、本当に消えてしまったっていい。
そう思えるのに、けれど、強く抱きしめられる身体の痛みが、ここに居ることを実感させるのだった。
おわり