赤いシグナル
俺はそんなにも彼女のことを名前で呼んでいなかっただろうか。それとも、名前で呼ばれるのが嫌だったのだろうか。
もう思い返しても思い出せなくなるほど彼女との時間は慌しく濃密で、俺の記憶の中にこれ以上ないほどたくさんの彼女が溢れている。
いて、当たり前。
俺の命を預けられるのは他でもない彼女だけ。
仲間に背中を預けるのとは少し違う―――どんな理不尽な命令だとしても、彼女がそれを俺に命ずるなら俺はきっとそれに従うだろう。
そういう絶対的な信頼の下、俺は彼女をとても大事に思っている。
「アキラ」
もう一度呼ぶと、アキラは照れたようににこりと笑った。
「どうしたの、ヨウスケくん」
俺なんかよりもずっと小さな彼女が見上げてくるその姿を見ていると、俺が命を懸けても守らなければいけない人はこんなにも細い肩に色んな重責を背負っているのだと知る。
俺たちの命を、世界の命を、細くて今にも折れてしまいそうな身体で必死に受け止めて、なのにずっと笑っているのだ。
その無垢さを、愚直さを、俺は守ってやりたい。
好きだ、と思う。
「…今日は少し冷えるから、温かいものを作ろうと思う。あんたは何が食べたい?」
俺は口が下手だから、言葉を繰ることが苦手だから、料理で伝えるくらいしか出来ない。
俺の気持ちの一端でも料理に乗せることが出来ればきっとアキラは嬉しそうに笑ってくれるだろう。
「食べたいものを作ってくれるの?うわぁ、何にしようかな」
「何でもいい。……魚以外なら」
「あっ、やっぱりそこ、魚は省いちゃうんだ?」
「……チッ。当たり前だ、あんな死んだ目をした物など捌けない」
「魚なら私が捌いてあげようか?ユゥジくんより上手に捌けないかもしれないけど、一応三枚になら下ろせるよ」
これでも女ですから、と得意げな顔をするアキラに、俺はやれやれと苦笑を浮かべた。
長ネギを切ったときのあの手つきを思い出す限りでは魚の身が崩れることは確実だろう。
「……あんたは包丁苦手だろ」
「そりゃあヨウスケくんよりは得意じゃないけどね、一応出来るんだから。それに私が魚を捌けたら、これからはヨウスケくんの弱点をカバー出来るじゃない?」
「……それは、」
これから先、ずっと傍にいてくれるということか。
流石にその疑問は口には出せず、俺はただ顔に熱を昇らせた。
そうならばいい。
いや、そうなるように、俺は願っている。
俺の隣でただ彼女が笑っていてくれるなら、俺はどんなことでもするだろう。
アキラの笑顔を、アキラの幸せを、俺が守れるのならば。
世界を守るよりずっと、俺にとっては大事な使命だ。
「…まずは野菜が上手に切れるようになってからにしろ」
誤魔化した俺の気持ちなど知る由もないまま、アキラがうっと言葉を詰まらせてしょんぼりと肩を落とした。
さらりと柔らかな髪が揺れる。
たったそれだけのことでも俺の鼓動は早くなってしまう。
「ヨウスケくんの意地悪…」
「……チッ、別にいじめているわけじゃない。魚は鮮度が命なんだ、もたもた調理していたら味が落ちる」
「ううっ、それはそうなんだけど…!」
「そんなことより、何が食べたいのか早く決めてくれ。調理時間がなくなるのは困るんだ」
とはいったものの、もっと困るのはアキラと話す時間が減ることだったのだが、俺の料理を楽しみにしてくれているアキラのためなのだから止むを得ない。
複雑な心境のままころころと表情を変えるアキラを眺めていると、気づいたときには口許が勝手に緩んでいた。
本当に可愛い、俺の教官。
彼女が望むなら、俺はいつか魚だって捌けるようになるのかもしれない。
「うーん…温かいものならお鍋か、うどん…雑炊…」
「随分と安直だな」
「だって冷蔵庫に何があるのかも知らないんだもの。思いつかないよ」
「じゃあ一緒に来るか?あんたが暇なら、だけど」
来てくれたらいい。
料理をしている間、傍にいてくれるだけで心が和らぐから。
「いいの?私、ヨウスケくんが料理しているところを見るの、好きなんだ」
そう言って例えようもなく嬉しそうに笑うから、俺はどんどんアキラに夢中になる。
今だけはレッドアラートが鳴らないことを祈りつつ、俺はアキラと肩を並べて調理室へと向かった。
(だけど心はレッドアラート)