お風呂にして、ご飯にして、それから。
帰れるとわかった時点でメールだけは入れておいたが、もしかしたらまだ寝ているかもしれない。
そう思って控えめに帰宅を告げながら静かに部屋の扉を開けたのだがすぐに中から人の動く気配がして手塚が顔を出した。
「ただいま手塚……起きてたのか」「ああ、おかえり乾」靴を脱ぎながら出迎えてくれた手塚に改めてただいまを言う。
「もしかして俺待ちだった?寝ててもよかったのに」言ってからしまったと思った。
もしかしたらたまたま、あるいは何か別の理由があって早く起きていただけなのかもしれないのに。あ、ヤバい。手塚が腕組んだ上に眉間に思い切りシワを寄せてる。
「……何日家を空けたと思っているんだ」「三日……いや四日かな」徹夜明けのせいかとっさに正確な数字が出ない。ますますヤバい。
「待っていたぞ」近い距離近いよ怖いよここただのマンションだよグラウンド無いよ手塚徹夜明けの体に100周はさすがに……どうもそういうことでは無かったらしい。
待っててくれたんだ。あ、ヤバい。違う意味でヤバい。きっと今俺の顔はとんでもなくだらしないぞ。
「……ありがとう」「風呂の用意ができているから入ってこい」
「……もしかして臭う?」「……ああ」服だけは毎日替えていたがさすがに三日間、いや四日間風呂無しだったから臭いだろうな。
とりあえず自分の腕を鼻に近づけてみるが慣れてしまっているのか特に何も感じられない。手塚のしかめ面だけが臭いのバロメーターだ。
カバンを自分の部屋に放り込むと適当に着替えを引っ掴んで風呂に直行した。着ている物を全部脱衣カゴに放り込み浴室の扉を開けると、湯をなみなみと湛えた浴槽が神々しいほどに輝いて見えたが、浴槽の中はまさに極楽浄土だった。
あまりの心地よさにそのまま昇天してしまいそうになるのを我慢して頭と体を洗う。石鹸の匂いが清々しい。もう一度湯船に浸かりたかったが今度こそ寝てしまう、そう思ってやめた。
入浴を早めに切り上げてタオルを首に引っ掛けたまま台所に顔を出すと、手塚がお湯を沸かしていた。
「朝食は済んでいるか」「まだだよ。実験終わらせてまっすぐ帰ってきたんだから」寄り道なんてする余裕は無かった。俺だって早く会いたいと思っていたんだから。
「それなら、お前の分も用意しよう」手塚がもうひとつ茶碗を取り出してそこにお湯を注ぐ。今日の朝食はご飯と即席の味噌汁で簡単に済ませることになった。
後片付けは俺が引き受けることにした。風呂を用意してもらい、朝食を用意してもらった。一緒に住んでいて割とよくあることなのだが久しぶりに手塚に世話をされて、何となくされっぱなしなのが居心地悪く感じられたからだ。
中学以来家庭科の類は努力の甲斐無くからっきしだったがそれでも後片付けくらいならできる。できなくは無い。俺の後ろで間違いなく心配そうにこっちを見ているだろう手塚を振り返る。
「……いいから座ってろよ」「……ベッドで待っている」耳元でそうささやいた手塚から石鹸の匂いがした。今日一番ヤバいのはコレかもしれない。頷くのが精一杯だった。「うん」
「できればこれ以上、あまり待ちたくは無い」「……焦って茶碗を割らない程度には急ぐよ」「ああ」
手塚が行ったのを確認して後片付けを再開する。落ち着け俺。ここで割ったらきっと、グラウンド100周するよりきつい思いをすることになるぞ。
緊張で硬くなった体を深呼吸で無理やりほぐしてそろそろと手を動かす。
お風呂にする、ご飯にする、それとも――手を動かしながらいつかどこかで聞いた陳腐な台詞を思い出した。
いつか誰かと暮らすようになったら、俺もこんなやり取りをするのだろうか。でもどれか一つに決めなければいけないのだろうか。昔はそう思っていた。
手塚と暮らすようになった今は、くだらないことを考えていたなあと思う。何のことは無い、全部やってしまえばいいんだ。
お風呂にして、ご飯にして、それから、全部を。後片付けも、もうすぐ無事に終わる。
作品名:お風呂にして、ご飯にして、それから。 作家名:萩原はるか