その言葉の果て
妹たちの言葉は聞いたことのない響きをしていた。何?と俺が問い返せば2人はもう1度その呪文めいた言葉を口にした。
結局その意味がわからないまま、俺はその言葉を何度も舌先で転がしていた。
終業式の日に学校に行くのは無意味だと思う。というかだいたいみんなそう思っているだろう。
「だけど俺は終業式のあとの解放感は特別だと思うけどね?」
チャイムが鳴った後の教室はがやがやと賑やかで、俺はそれを聞き流しながらそんなことを言う新羅を見た。
「そういえば臨也は進学なんだっけ? だったら解放感なんて言ってられないねえ」
「決めてないよ。新羅は?」
「俺は卒業したら医者をするよ」
さらりと言われたその意味を俺は正確に理解した……と思う。
「ロクな大人にならないと思っていたよ」
「臨也にだけはいわれたくないね。
心底嫌そうに新羅は顔を歪めた。
「早く自立してセルティと対等になりたいんだ」
愛しい人の名前を呼ぶ新羅のことが俺は結構好きだ。柔らかく微笑むくせに底知れぬ何かが見えるから。しかし、俺は残念ながらその彼女には大して興味がわかないんだよね。
「シズちゃんはどうするのかな?」
「静雄は就職だと思うけど」
「似合わない」
吐き捨てるような俺の声に新羅は笑った。
「あいつは俺たちより普通だよ」
俺は否定しなかった。かといって肯定するつもりもない。
シズちゃんは化物だ。俺が愛せないなんて――人間じゃない。でも俺は彼が『普通』でありたいと思っていることを知っている。それに腹が立つ。
大学に行こうかと思った。そしたらきっとシズちゃんと会うことはないだろう。あいつとの縁はこれっきり。それでいいはずなのに。
深い溜息が零れた。
けれどこれは逃げだ。人間に紛れる化物め。この世界に化物なんていらない。いるのは俺の大好きな人間だけでいい。
このもやもやとした気持ちに整理がつかなくて苛立たしかった。
「高校卒業するまでに死んでくれないかな」
「誰のことは聞かないけど……。お腹空いてるから苛々してるんじゃないの?」
「そうかも」
「露西亜寿司にでも行く?」
「そうするか」
鞄を手に教室から出る。なぜかマイルとクルリが言っていた呪文を思い出す。
「ヤーリュブリューヴァス」
露西亜寿司のカウンターに座ってランチを二人前頼む。何とも言えない無国籍な店内を眺めながら試しに新羅へと尋ねてみた。
「『ヤーリュブリューヴァス』って言葉知ってる?」
「何それ、呪文?」
「いや、知らなきゃいいんだけど」
新羅も知らないか。俺は何の気なしにその言葉をもう1度呟く。
「もう1回言ってみてくれないか」
目の前のロシア人板前が珍しく口を開いた。
「ヤーリュブリューヴァス」
少し考えるように目を閉じてから整った発音で返された。
「Я люблю вас」
「どういう意味……」
「それは『I love you』って意味ネー」
店にちょうど入ってきたサイモンが陽気な声で答えてくれた。
その瞬間にどうしようもなく可笑しくなってきた。妹たちの楽しそうな顔。シズちゃんの姿も。学校も。全部可笑しくて俺は笑った。
この瞬間俺は世界で1番自由だと思った。きっと誰も俺を縛ることは出来ない。あらゆることから逃れて生きていけるような気さえした。
ただただ愛してる。人を愛してる。
「ふふっ。ふははは……」
「臨也がとうとうおかしくなった」
呆気にとられる新羅。失礼な。
「なあサイモン。頼み事があるんだけど……」
家に帰ると妹たちが出迎えてくれた。
よく似た2人に「ただいま」と告げてから俺は意地悪く笑ってその言葉を言う。
「ヤーリュブリューヴァス」
「解(わかったの)……?」
「ああ」
リビングに入ると紙袋を開けて中に入っていたものを出す。
「ロシア語?」
「夏休み暇だから勉強しようと思って」
毎日露西亜寿司を食べに行くかわりにサイモンに教えてもらう。そんな約束を取りつけた。
高校3年の夏休みな暇がない。けれど俺にとってはそういうことはどうでもよかった。楽しいことだけしてようじゃないか。
きっとそんな気になればどうにでもなるんだろうさ。
「ヤーリュブリューヴァス」
思わず出たその言葉は夏休み前に比べると、我ながら綺麗な発音だと思う。
「は?」
シズちゃんが相変わらず苛々とした目を俺に向けてくる。どうして俺はこんな言葉を呟いたのだろうか。
『愛してる』なんてそんなはずはない。だって俺は――。
「死んでくれ、って言ったんだよ」
俺が微笑むとシズちゃんの手が俺に向かって伸びた。