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そしてもうあの人はいない

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南がどこ行くんだよ、と声を掛けたので、答えない訳にはいかなくなり、若干面倒臭いと思いつつも、張り付いた笑顔で対応する。
「こっち、ちょっと電話してくる」
「あ、そ」
俺がすぐに反応を返したことで興味が無くなったのか、随分とあっさり解放してくれた。南は未だに、このメンバーが揃った時はしっかり者の振りをきちんと演じてくれる。俺たちはそんな南に甘えっぱなしだ。ごめん、と軽く手を添えて謝ってから賑やかな座敷を後にした。ゆっくりと丁寧に障子を閉める。
綺麗に磨きこまれた廊下にしとしとと雨粒の音が静かに響く。廊下の端まで歩いてそこに腰かけた。ポケットから鮮やかな橙の携帯を取り出すと、この雰囲気とあまりの不釣り合いさにふつふつと笑みが零れた。黒は嫌いだ。思ったよりもしゃきっとこの色を着込んでいる自分には驚く。あの人を見送るには、この色は何故だかとても似合わない。どうせならあの人も、一緒に過ごした日々を思って白ランが良かったに違いない。
だが俺は、それを着るには随分大人になってしまった。
本当に電話を掛けようと思って抜け出して来た筈なのに、携帯電話を握りしめたまま、俺は一体誰に電話を掛けようとしていたのかと悩む。
「お前らな、ビール瓶は振り回すためにあるんじゃないんだぞ!」
声だけ聞くと雰囲気は青学にいた副部長に似ていなくもない、と思って少し気分が楽になった。きっとこんな感じに辛気臭いのはあの人は望まない。
考えやものの捉え方、感情の起伏。思った以上にあの人と共感が出来るところは多かった。俺は生まれて初めて先生という生き物を、受け入れられた。恩師と呼ぶには何故か歯痒く、奇妙なずれを感じる。そんな軽い言葉で片していい存在ではなかったのだと、今にして思う。
(笑顔という処世術を学んだのも、あの人からだった)。
泣くことがこんなにも難しくなっていたなんて。握りしめて温くなっていた携帯電話を再びポケットに戻すと、何食わぬ顔で立ち上がった。廊下が古い家屋よろしく軋んだ音を立てる。なるべく雨音に紛れるようにして俺はまた障子を開いた。

「ごめんごめん、今戻りましたよー」