御機嫌よう、エレジー
こんな言葉を意味なく残して刻み込んだままで、己の縄張りから去ったひとが居た。随時現在を調べているが、表だけは普通に埋もれているので近況が分かり難い。分かってはいるが、厄介な迷彩を施されている。
暖房をいれた、狭い教師用の研究室または準備室を名称する場所を訪れてみた。身長の低い地味な教師がいかにも美味しそうに、自動販売機で買ったらしきパックのいちごみるくを飲んでいる。自然に。しかし確か三十路近くでいて独身だった筈。
そんな風に、曇って向こう側を見通し辛い窓を背に休憩時間をのんびりと謳歌している部屋の主と居る。資料からは古い物独特な香りが歴史を語り、絶妙に混沌としながらも整理された棚には私物がない。
性格ではない。これは、準備だ。
さて先生、実は移動なんだよね。まだ言っちゃ駄目なんだけど、言いつつこれ先生と折原くんだけとの内緒ね、と付け足し結びに指先を唇にあてる。
そうか素か。
君派閥争いで遊ぶのが好きなんだって。お陰で久々にわくわくしたし面白かったよ。今回はコウモリで立ち位置を固定し過ぎだったなあ。ちょっと複雑で途中で飽きちゃったし。でも一致団結して共通の敵を倒すのってよくない?そんなハッピーエンドが偶にあってもいいよね。まあ時々なら生け贄になってあげてもいいし、事情を察してくれた岸谷くんのお父さんが恩赦くれたしね。これで大円満。只一つ惜しいのはね、僕はまだ学校に拘束されてるのに下校してく生徒が居るでしょ。で、ようするに昇降口から程よく遠い此処がナイスベストポジションなんだ。だから此処から離れるのは残念だなあ。
童顔を輝かせつつのまくしたてを観賞しながら相対すると、よりくっきりと掴み所がない妖怪染みた雰囲気を身にまとわせているのが今更ながら分かる。
少しばかり歪んだ均衡の教師による派閥があったので遊んでみたら、思いがけず火種は広がった。終盤、どうも操作と誘導がされていると気付いたのがちょっと前。そして裏で微笑んでいた当人が特定出来たのが今。ワザと招待された可能性を否めない。
あと人の考えてることを聴いたりもするんだっけ。じゃあ人生の先輩である先生が一つ、持論を偉そうにタダで授けてあげる。進化し続けてもやがて終わりや限界が見えてくる。需要と供給が釣り合うことはなく、満腹になることは程遠いものだ。それなら果てしなく続いていく、若しくは自分で作る横に進むっていう妥協する選択肢があるんだ。
諦めきった大人め。
あとね、僕はどうしようもなく自己中心的であるけれども。時にはかわいいかわいい自己を捨ててさえ、好きなものに浸りにいけるんだ。
諦めの悪い大人め。
「今度赴任する学校は、カラーギャングとかがはびこってるらしくってね。今から楽しみだよ」
「先生、天然のふりが剥がれかけてますよ」
「えへへ」
このひと本当に三十路近くなのだろうか。何処かで詐称してはいないか、そんなどうでもいい疑問が頭を過ぎる。
今に見てろと結露した窓に人指し指で相合傘を落書するも、嘆息で薄く上書きした。
どんなに没頭して耳を澄ませても、まだ春の足音が聴こえないから。
作品名:御機嫌よう、エレジー 作家名:じゃく