傘、忘れた
「あ。」
西浦野球部は週に一度だけ、練習がない。
やっぱり、なんだかんだ言っても
きつい練習がないのは純粋に喜ばしい。
けれどいざ休み。となれば妙に体がすかすかする。
そんな週に一度のすかすかを味わっていた花井は
四時間目の授業中、教室の窓から空を見上げて声を漏らした。
「傘、忘れた。」
思わず言葉が口をついて出てしまう。授業中だというのに。
教師の教科書を朗読する声が、一瞬止まった気がして
あわてて顔を教科書に伏せる。
その間も花井の頭の中は傘のことでいっぱいだ。
今朝見た天気予報が降水率100パーセントを数えていたのに。
とか、
それを見ていた妹二人が、大騒ぎしながらわざわざ玄関に
『お兄ちゃんのもね。』といって傘を出していてくれたのに。
とか。
実際傘を忘れたことよりも、花井が傘を
忘れたことを、妹たちに知られるのが痛い。
後で何を言われるやら。
『さしあたり、どうやって帰るか。だな。』
今にも泣き出しそうな曇天を見上げて、
花井は帰り道を思案する。
どんなに飛ばしても、帰り着くのに30分はかかる。
置き傘なんてしているやつは皆無だろうし。
そういえばマネージャーの篠岡が、ちゃんとした傘と
折りたたみの置き傘を持っていたような気がする。
『仕方ない。篠岡には悪いが借りるとするか。』
花井が帰りの方針を決定したところで、終鈴がなった。
「きりーっ。」
クラス委員の声が響く。
「れぃ。」
ありがとうございました。
唱和する生徒の声が消えぬうちに、扉を蹴倒すように開ける音がした。
そして威勢のいい、あの声も。
「はなイー!雨降るから傘もってきたぜー!」
クラス中の視線と、彼の四番のきらきらしたまなざしを浴びて、
花井は、死ぬほど恥ずかしくて嬉しくなった。
田島は朝練のときに花井の傘チェックをしました。