未来の国をなぞる掌
よく手入れのされた日本庭園の広がる奥に、風紀財団の隠れ家は闇に紛れて佇んでいた。
天下の風紀財団は辺り一帯、膨大な土地を買い取ってしまうから、近くに人家はない。家の明かりも生活の音も全てを締め出して、唯自然の物だけを受け入れている。
夏の宵は、すっかり太陽の沈んだ後までも熱ばかり居座っているが、財団長のこだわりに寄って、隠れ家の中には冷房どころか、扇風機すらない。縁側は大きく開け広げられたままで、木々を撫でて行く様に吹く風を屋敷の中へ取り入れていた。
そんな、煩いけれど静かで、厳しいけれど優しい夜。差し込む月だけを唯一の明かりにして、沢田綱吉と雲雀恭弥は布団の上に向かい合っていた。
「俺、生まれて初めてプロポーズされちゃいました」
綱吉は顔の前で両手をあわせて、照れたように笑った。
「……それは今、このタイミングで言うこと?」
雲雀はのそのそと顔を上げて、綱吉の瞳を覗き込んだ。琥珀の瞳はとろりと飴が溶けた様になっていて、奥に熱を秘めた瞳は、三日月の様に細められている。
沢田綱吉と雲雀恭弥は布団の上で向かい合っている。正式には、沢田綱吉は背を布団に預けて、雲雀はその身体を跨いで覆いかぶさる姿勢で、二人は向かい合っている。二人の間には、暑いからなんて理由ではなく、衣服はない。
「すみません」
でも……プロポーズされるって、求められるって事だよなあって考えたら思い出しちゃって。
「他の事考えてるなんて余裕じゃない。考え事なんてできない様にしてあげようか?」
「え……いえいえ結構です!」
雲雀の手が不埒な動きで胸に触れた。綱吉は慌てて雲雀の首筋に腕を回して、そのまま引き寄せる。
「なに」
「久しぶりに会ったんだから、くっついてたいじゃないですか」
雲雀の首筋に綱吉が顔をうめる。首筋に当たる呼気と、頬に当たる髪はこそばゆいが、嫌な物ではない。ゆるゆると胸を弄っていた手を引き抜いて、雲雀は綱吉の小さな背中に腕を回した。
「……さっき中までくっついたじゃない?」
「そ、そういう事じゃないです! そういう事は言わないでください!!」
綱吉が背を叩いて暴れるが、雲雀はそんな事は気にしなかった。腕の力を強めて、背と髪をぽんぽんと撫でてしまえば、綱吉はさっさと諦めて大人しくなってしまう。
縁側は開け広げられていて風の通りはいいけれど、夏の夜に抱きあって寝ていれば当り前に、身体は沸騰してしまいそうな程に暑い。
そうでなくても、のぼせそうなほどあつい事をして、身体は汗まみれでくらくらしている。そんな風になっても、互いの体温は離れがたくて、暑い気温よりもさらに熱い体温は恋しくて、二人は知らんふりして抱きあっていた。
「ねえ雲雀さん。勿論俺は断ったんですけど、雲雀さんは求められた事ってありますか?」
暫くそのまま抱き合って、綱吉は時々身じろぐ以外は全くの静かで、うとうとと眠ってしまったかと雲雀が思った頃に、突然声が上がった。
半分溶けた様になっていて、眠そうな調子ではあるのに、質問はしっかりとしたものである。
「……プロポーズはないけど、ゴムをはずして、だったらあるよ」
「は?」
雲雀の言葉に、心なしか強張ったような綱吉の身体を引き寄せて、胸に顔を導いた。鼓動の音という物は不思議と人を落ち着かせる力がある。
綱吉は抱きよせた雲雀の左手をそのまま、引いたり絡めたりして遊び始めたから、雲雀も綱吉の髪に指を絡めた。
「ずっと前、僕の子供が産みたいから、ゴムをはずしてって」
「……ですか」
「うん」
縁側の向こうで、虫が鳴くのが聞こえる。暑い暑い宵の筈が、フライングした秋の虫はもう羽を震わせているらしい。
意識した途端風に乗って虫の声に混じって、秋の気配がひっそりと近づいて来るのを屋敷の中に感じた。
「それ、ことわったんで、すか」
「条件をつけてOKした」
綱吉の大きな瞳が、雲雀の予想外の返答にさらに大きく見開かれる。まさか孤高を好む、煩い事を嫌う雲雀がそんな事を許すとは、綱吉は欠片も思っていなかったのだ。
「……じょうけん、て。え、じゃあそれさえクリアーすれば」
「産んでいいと、言ったよ」
自分の胸の上に人一人乗せているというのに、雲雀には負担にも思わないらしい。驚きで眠気の払われて行く綱吉とは裏腹に、雲雀は綱吉に視線を合わせながら、呟くようにそう言ってゆっくりと頷いた。
綱吉は、雲雀恭弥という男はどこまでも本能に生きている男であり、その癖人間としての全て嫌っていると思っている。子供のような、人間の本能の集大成の様な物を、例え条件付きだとしても許せるような男だとは思っていなかった。
条件。
雲雀に子供を許せるほどの条件という物を、綱吉は真剣に考えた。
「……僕を倒せたら、いいよ、とかですか?」
眠そうにしていた、何時だって本能に逆らわない雲雀が、まさかこんな気になる会話の最中に眠ってしまってはいないだろうか。
話題が話題だけに、普段の会話で聞けるようなものではない。
起きているかを確かめる様に、綱吉はのそのそと雲雀の身体の上を、顔を覗き込む位置まで登って、雲雀の頬を両手で挟む。
けれど綱吉の予想とは裏腹に、雲雀は闇に溶けない、それよりもさらに真っ黒な瞳をきらりと光らせた。
「沢田綱吉の卵子だったら、産んでも構わない」
ひゅっと息を飲んだ。
琥珀色の瞳は、真っ黒な瞳に捉えられて、押さえつけられた訳でもないのに、それよりももっと強い何かの力で、逸らす事が出来ない。
「あんた、自分がどれだけひどいこと言ったのかわかってますか」
「ああ、やっぱりそうなんだ」
綱吉の声は、みっともなく震えていた。綱吉はその事すら気がつかないで、捉えられたままの瞳で目の前のそれを睨むように見返した。
「人を何だと思ってるんだあんた、それは、フルより、産むなって言うより、悪い」
「そう」
雲雀の声に、反省の色はない。きっと、そもそもどうして悪いのかもわかっていないのかもしれない。
今だって話に飽きたからか、それとも興が乗ったのか、何時だって綱吉に対して暴力か不埒な真似しか働かない掌が、綱吉の腰のあたりを撫で始めている。それに流されてしまいそうな綱吉が居る。
綱吉は女になりたいとも思わないし、子供が産みたいなんて考えた事すらない。
それでも目の前にいる人が望むなら、産んでやりたいと思ってしまう愚かな自分が居る事も、綱吉は自覚する。
沢田綱吉の卵子なんて、あるんなら俺が欲しいよ。
沢田綱吉の卵子ならいいと言ってしまえる雲雀に。雲雀の子供なら産んでやりたいと考えてしまう己に。
何よりそんな物は存在しないという事実に。
ぐずぐずと意識が呑みこまれて行く中で、綱吉は全てに向かって吐き捨てる様に呟いた。
「バカだ」