stilly Nocturne
兄は、両耳が聞こえなくなっていた。
喧嘩で後ろから鈍器で頭部を殴打されたのがその原因らしいが、数週で治るとの診断だった。兄ならば、数日で完治させるだろう。
「すげえ違和感ある…」
というのが静雄の感想だったが、耳が聞こえないと自身がきちんと話せているかどうか不安があるのだろう。兄はいつも以上に口数が少なかった。
夜、兄の部屋を訪れると、兄はやはりベランダにいた。ぼんやりと外を見ている静雄の背が、なんだか心細そうで、引かれるように幽はベランダに近づいた。物音を感知しない兄は、かなり近づいても幽に気付かなかったので、幽はその背に触れた。生まれたときからずっと見ていた背。あの夜に負ぶさった背。そして、間もなくこの家を出て幽から離れていく背。こんなにも、いとおしい背中だ。
「うお、…幽か。びびった」
触れてようやく幽に気付いた兄が、そう言ってちょっと苦笑して、それから幽の顔を見て眉根を寄せた。幽は自身がどんな顔をしているのか分からなかったし、おそらく他人が見ればそれはどこまでも無表情だったはずだ。だが、静雄には幽が酷く悲しんでいることが伝わってしまったのだろう。
無音の世界にいる兄は、背に縋ってくる幽を安心させるように、「大丈夫だ、すぐ治る」とゆっくりと言って笑って見せた。
――そうじゃない。この体温は、慰めでも癒しでもない。
もっと欲にまみれたものでしかない。幽は思ったが、口にはしなかった。あの幼い日には、自分の体温で癒すように兄の背に負ぶさった。だが今はもう、兄への思いが変わってしまっている。もう、純粋に癒すために体温を与えることなど、できないのだ。
「兄貴、」
兄の背を抱きしめて、その首筋に顔を埋めたまま呼びかけるが、返答はなかった。聞こえていないのだから当然だ。
兄の金の髪に鼻先を埋めてみると、寂しさとも愛しさとも切なさとも分からない感情がわき上がって来る。
「兄貴。…兄さん、兄さん」
兄が幽の前で最後に泣いた日に、幽を負ぶった背よりも、ずっと大きくなった、しかし未だに薄い背にかぶさり、その首に腕を回す。あの日も、今と同じように兄の背に縋っていた。だが二人は月日を経て背丈も伸びた。そして何より、幽の心情はあの日から大きく変わってしまっている。もう、留めておくことが苦しいほどに。
「兄さん、兄さん。好き。好きなんだ」
聞こえていない兄の耳に、何度となくそう囁いた。兄には絶対に届かないからこその告白だった。
兄はいつになく接触を求める幽を振り返って不思議そうな顔をしてから、ぽん、と軽く幽の髪にその手を置いた。いつもと変わらない優しさで、いつもと変わらない仕草だった。それが妙に悲しくて、幽は兄の手を取った。
くすんだ夜空を確かに照らす星を示した手。幽はそれを、自分の頬に擦り付けた。ありったけの思いをこめて。
静雄の聴覚の異常は、数日どころか、次の日の昼には治った。
「幽にもめーわくかけちまったな」
「ううん、全然」
幽は、首を横に振って見せながら、永遠に届くことのない告白を胸にしまう。
兄の耳に伝わる言葉で、思いを告げる日は、おそらく永劫にこない。
それでも幽は、夜空を見上げるたびに青星を探すだろう。春が来て星の位置が変わり、あの星座が見えなくなってもずっと、兄が示した星あかりを、探し続けるだろう。彷徨い続ける旅人が、それだけを頼りに縋るように。
(stilly Nocturne・完)
作品名:stilly Nocturne 作家名:サカネ