花嵐
庭木はその枝に鮮やかな紅色を乗せていた。
吼える金を訝しみ濡れ縁へと出た泰衡は、見上げた視界の先に佇む紅にきゅっと眉根を寄せる。常日頃より深い皺を刻んだ眉間が更に剣呑な風情になった。
季節は確かに葉の色づく頃、しかし泰衡の室から見える木の葉は毎年褐色に染まるのが恒例である。それが今年に限って紅葉したのかと言えば無論そのような訳でもなく、紅い髪の青年がひとり、猫のように枝の上に寛いでいたのだ。
「何処から入ったんだ貴様は」
吼え立てる犬を宥めながら、泰衡は痛むこめかみを押さえた。
しかし枝の上の青年は悪びれた風もなく、軽やかな口調で挨拶を寄越す。
「よ、久しぶり。相変わらず景気の悪い顔してるねアンタも」
「いらぬ世話だ。しかし熊野別当御自らお出ましとは、彼の地は存外平和のようだな」
「さあて、人違いじゃないのかい。熊野だって今は鎌倉方の目が厳しいんだ、別当がわざわざ平泉くんだりまで来るわけないだろ。俺はヒノエっていう、ただの旅人さ」
軽口に冷笑で返せば、更に人を食った笑顔を投げ返された。
身元は明かすなということらしい。微行をするならば微行らしく大人しく忍んでいればよいものを、と泰衡は胸中で悪態をついた。
平泉と熊野は縁が深く、不本意ながら泰衡もこのヒノエと名乗る青年との面識がある。父親の供として数度、熊野詣に行ったことがあるからだ。
幾ら彼がこの平泉の地に訪れるのが始めてだとしても藤原家に仕えるものであれば彼の顔を見知っている者もいるだろう。それを白昼堂々、泰衡の館に忍び込むという無用心さに頭が痛む。
泰衡は嘆息し、投げやりに刀の柄に手をかけた。
「なるほど、人違いかもしれんな。ならばこの藤原の館に忍び込んだ鼠一匹、斬り捨てたところで熊野から文句は出まい。有難い話だ」
「おお怖い」
ヒノエはわざとらしく目を丸くした。
泰衡に己を斬ることなど出来ないのだとわかっているのだろうが、それにしても憎々しげな態度である。
ただでさえ鎌倉を迎えうつ算段を練らねばならない今、このうえ熊野と事を構えるつもりなど泰衡にはない。しかし頓死をしたことにして斬り捨ててしまっても良いだろうかと、思わずそんな考えが過ぎった。
不穏な思考を感じ取ったのか、ヒノエは軽く肩を竦めてみせた。
「まあそんなに怒るなよ。勝手に上がったのは悪かったけどさ、ここの警固にも問題があると思うぜ?まともな番犬はそいつくらいじゃないか」
そう言って金を顎で指すヒノエに泰衡は憮然となる。確かに犬一匹以外この青年の侵入に気づく者がいなかったかと思うと情けない。責任ある立場にありながら細作の真似事をする輩にとやかく言われたくはなかったが。
「それで?結局、いったい何用だ。まさか少し見ぬ間に男の元に忍ぶ趣味を覚えたわけではあるまい」
「まっさか!気持ち悪いこと言うなよ。高館に用があったんだけど丁度皆出払っててさ。で、アンタが最近新しく犬を拾ったって聞いたから暇つぶしに見に来たんだよ」
暇つぶしに来られても迷惑なだけだが相変わらず耳の早い男だと、泰衡は表には出さずに感心した。
しかしそんなヒノエの軽口に、漸く合点がいった。
八葉のひとりに熊野のヒノエという男がいるのだと九郎が言っていた。それが目の前の若き別当だとは思いもよらぬ話だったが、彼が八葉というのであればこの地に訪れた理由にも納得できる。高館の神子姫が目当て、ということだろう。
しかし目の前の青年が、女ひとりのために熊野を危険に晒すとは思えない。九郎のついでに何かの役に立てば良いかと思っていた少女だが、想像以上の拾い物だったかもしれないと、泰衡は口元に薄く笑みを刷いた。
「それならば無駄足だったな。その犬なら高館に咲く野の花の守り役につけている。戻るならその花と一緒だろう」
「なんだよ、それならあっちで待ってるんだったな」
枝の上で器用に足を組み、ヒノエは拗ねたように口を尖らせた。
「しかし野の花ねえ…、アンタでもそんな言い回しをするんだな」
「俺ではなくその犬がそう言っていただけだ。山野の雑草だろうが垣根の椿だろうが、愛でるだけで役に立たぬものに俺は興味はないがな」
「あっそ。アンタといい九郎といい、武士ってのはどうしてこう無骨で情緒がないんだろうね」
「だがその御曹司もくだんの野花には骨抜きのようだな。そのうえ貴殿をも動かすとは、龍神の加護とやらも、そう馬鹿にしたものでもないということか」
あながち軽口でもなくそう考えて泰衡が忍び笑うと、ヒノエが胡乱げに眼を眇める。
「アンタが九郎を餌に鎌倉と喧嘩しようと俺が口出すことじゃないけどさ、野花の姫君はアンタの掌で大人しく踊ってくれるような可愛げのある娘じゃないよ。下手に手折ろうとしたところで手酷いしっぺ返しを喰らうのがオチだね」
「ほう、百戦錬磨の貴殿からそのような忠言を頂くとは。中々手強い花のようだな」
「当たり前さ、この俺がまだ落とせてないんだ。そう簡単になびいてくれると思っているなら大間違いだぜ」
要するに神子には手を出すなと釘を差しに来たらしい。肝に銘じておこうとだけ泰衡が返すと、言うだけ言って満足したのか、軽口の応酬に飽いたのか、ヒノエは組んでいた足を解いて立ち上がった。
「ま、アンタに手を出される前に俺が攫って行くけどね」
そう言い残すとヒノエは猫のような身軽さで枝を伝い、屋敷の外へと降り立った。
その背を見送りながら、あの枝はあとで切り落とす必要があるなと泰衡は嘆息する。そうしてふと、花のように笑う少女の姿を思い起こした。
「野の花、か…」
確かに芯の強そうな眼をしていた。女だてらに刀を振るうのだとも聞いた。武芸の心得のある娘など多少もの珍しいだけだが、ただ珍しいというだけの娘ならば九郎やヒノエが動く筈もない。神子の名も伊達ではないということだろう。
しかしその花が呼び寄せるのが、彼女に優しい、柔らかな風ばかりであるはずもないのだ。
ヒノエは忠告を残して言ったが、もとより泰衡が策を練らずとも鎌倉が彼女を見逃すわけがない。彼の地を守護する異国の神をおびき寄せるのにこれ以上の餌はない。
無理に手折る必要などどこにもなかった。自分はただ膳立てをすればよいだけの話だ。
泰衡は室に戻ろうと踵を返しかけ、ふと足を止めて空を仰いだ。
秋の天は高く澄んでいて、薄く流したような萌葱色に白い線が幾筋か漂っている。やがて訪れる冬と戦の気配はまだ遠く、往来の人々のざわめきを秋風が運んでいた。
見上げた空の眩しさに泰衡は目を眇める。
もとよりこの身は、この地を守るためだけにあるのだ。
ならば友だろうと龍神の娘だろうと、己自身だろうと、この安寧のために利用することに何のためらいがあるというのか。
(――花が呼ばうは嵐か、それとも)
とりとめもなく過ぎる己の思考にため息のような笑みがこぼれた。
何が来ようとも恐れることなどない。嵐が過ぎた後にも、この地には変わらず平穏が訪れるだろう。
そのためにひとは戦い、血を流すのだから。
(初出:060714)