空蝉
色の褪せた岩場を踏みしめた細い脚が小刻みに震えていた。
白く華奢な少女の脚だ。黒い衣を握り締めた少女が、膝と共に身を震わせているのは、恐怖からでも寒さからでもなかった。強いて言うならば怒りだろうか。戦火に焼かれた地を踏みしめた時のように、身の内から焦がしていくような熱が靴裏から這い上がってくる。
それは少なくとも悲しみでもないのだろう、と彼女は思う。海風を受けて両の目は乾き痛むけれど、一筋の涙も流れてはこないのだ。何度瞬きをしてみても、目蓋が張り付くような疼痛が残るだけ。
痛い、と叫ぶ代わりに腕の中の衣をきつく握り締めた。指先が白く、色を失うほどに。
黒衣はまだ柔らかな温さを残していた。彼がいつも纏っていた香の匂いも、僅かに残っていた。
しかし幾ら抱きしめても、ただ空を掴む心地がするだけだ。先程までは目の前にこの衣を纏った男が立っていたのだと確かに覚えているのに、段々と彼の存在が幻だったようにすら思えてくる。
柔らかく微笑んで鳥の名前を教えてくれたことがあった。
美しい肌に傷をつけるなんてなどと戯れ言のような事を真面目な顔で呟いて、眉をひそめながら怪我の手当てをしてくれたこともある。
人となりに似合わず乱雑な部屋に呆れてみせたら、子供のような顔をして笑っていた。それから山のように積んだ書物の中から自分でも読めるような絵巻物を探してくれたのだ。
疲れている時には誰よりも早く察して気遣ってくれるひとだった。
ここにこうして立つまでに教えて貰った沢山のことを全部覚えているのに、教えてくれたそのひとはもう目の前には居ない。
微笑んで嘘を吐いて、騙して、本当のことは何も教えてくれずに、全部ひとりで背負い込んで、そうして灰のように風に溶けて、消えてしまったのだ。骨のひとかけらすら残さずに。
(――馬鹿みたいだ)
主人を失ってただの抜け殻になった衣を握り締め、少女は声を立てて笑った。馬鹿みたいだ、と思った。最後まで彼の心を知らずにいたわたしも、わたしの何もかも知ろうともしなかった彼も。
全部抱え込んで、自分のしたいようにして、笑って灰になった彼は満足だったかもしれない。
けれど嘘を吐かれ、目の前で消えられた少女にはどうやっても許せることではなかった。その抜け殻を抱きしめて終わらせるつもりなら、最初から彼女はこの地に立ってはいないのだ。彼はそれを知らない。
怒りに身を突き動かされた少女が何をするのか、もう居ない彼は知らない。
彼女は握り締めていた衣を投げ捨て、残り香を払うように頭を振った。そして首から下げた白い欠片を、捨てた衣の代わりのように大切に握り締める。大きな鱗のようなそれは少女の怒りを映したかのように朱色の煌きを放った。
(あのひとは、本当のことなど何も教えてはくれない)
だからその咎を目の前に突きつけてやるために還ろう。
風に巻かれて空を舞う黒衣を見上げ、少女は笑う。笑いながらも込み上げるのは怒りばかりだった。
鱗の放つ光は少女を包み込み、風に溶かすようにその姿をかき消す。
あとにはただ打ち捨てられた黒い衣が、抜け殻のように地に残った。
あのひとは、本当のことなど何も教えてはくれなかった。
だからこれは恋などではなく、ましてや愛などでもない。
――ただ、知りたいだけなのだ。
(初出:060717)