触れない
触れない
「六甲」
あまい声色だ。
名前を呼ばれ、顔を上げると、菫の水面がふたつ、親しげに揺れていた。
「ろっこう」
更にもう一声、駄目押しとばかりに柔く、唇がひそやかに振動する。
「…若、さま」
水気のある、色の混じった声で名前を呼ばれると、どうして良いのか分からなかった。
何を、望まれている?俺は、どうしたら正しい?
まるで度数の高い酒を一息で煽ったように、身体の芯が熱かった。
あの声で名前を呼ばれると、どうにも弱い。無条件に従いたくなる。
考えることを放棄してしまいそうだ。
俺が馬鹿みたいにじっと固まっていると、若様は目を細めて猫のように笑った。
「冗談」
そう言って、俺の首筋に手を掛け、下方に軽く引く。
もう一度足元に視線を落とすことになった。
「まったく、でかくなりすぎだ」
首筋に置かれた手はそのまま頭上へ移動した。
短く刈った髪を、気まぐれに掻き混ぜられる。
頭皮に骨張った感触。けれど温かい手の平の熱が心地良かった。
「お前を、困らせたいわけじゃ、ないんだ。それだけは、知っていてほしい」
頭の上からぽつりと降ってきた言葉は、どこか寂しそうだったのに、俺はほうと胸を撫で下ろしていた。