いろ褪せ烏のとおい行水
「バスソルトゆうの? 洒落てんなあ。うちの湯舟なんぞ、バスマジックリンしか入れたことあらへんわ」
「え? ああ、バスクリンやろ。洗剤やないか、バスマジックリンゆうたら」
「せや、バスクリンやった」
ばしゃ、と両手にすくった湯水を、脱色したばかりの頭から、勢いよくうち浴びては、きらきらと弾かれた水滴が、向かい合わせの、ひいでた額へと掛かる。ほんまや、塩からいな。
「……何してんの、」
「やって、暇やねんか」
「しゃあないなあ。ほな、あと十秒だけ、数えたるから、そしたら上がりや」
「十秒て。また、えらい懐かしなあ」
「いくで? いーーーーーーーーーち、」
「長い長い長い」
「お約束やんなあ。にーーーーーーーー、……っはあ、いーーーーーーー、」
「ちょ、息継ぎは反則や!」
「にーてんご、」
「小数点なしで!!」
「自分、さっきから注文多いなあ。数えたってんの、誰のためや思うてんの」
「俺のためとかゆうて、明らか嫌がらせやんな」
「そうでもあらへんよ?」
さーん、しーい、まひるの狭い浴室じゅうに、水の表面をたたくように反響する、ゆるゆると間延びした、ねむたくなるような声を、聴きながら降ろした、くろい睫毛のさきから、ひとしずく、湯舟に落ちて、たちまち混ざる。
「ーーきゅーう、じゅう。……はい、お疲れさん。先に上がってええで」
「……なあ、やっぱりお前もいっしょに上がろうや」
「俺はええよ。もうちょっと入ってるわ」
「せやけど、……なんや、今にも溺れそうで、はらはらしてかなわんわ」
「は、なんて? こないに浅いとこで、どないしたら、溺れられんねんな。器用なやっちゃ」
「いや、せやから俺やのうて……、ええから早、」
滑りやすい手に手をひいて、湯から立ち上がろうとし、なかほど、子供をくわえて連れようとする親猫のように、湾曲させた背骨のうえで、痛みがはぜた。あたかも、急降下する硬いくちばしに、不意を突かれたかのような。
「……っ、い……!!」
「……あーあ、それ、ごっつ痛いわな、蛇口ぶつかんの。大丈夫か? 背中、……血は、出てへんみたいけど」
「ほん、ま、やばかったで。ありえへんわ、……痛すぎて、涙も出てくるっちゅーはなしや」
「あぶなっかしいなあ、毎度のこと。ちょっとは落ち着いたらどうや、」
「お前、……誰のためや、思うてんの」
「さあ? 知らへんなあ」
そうして、塩からい睫毛のさきに限らず、どこもかしこも濡らされては、今更、くろが褪せたばかりのきんいろ、ぐしゃぐしゃにかき混ぜた、その襟足から、抉れた背中を伝い、伸びた膝裏へ落ちる水滴の、やがて行き着くところは、揺れて、あたたかく満たされた湯舟、なんかではなくて、にわかに重力をうける腕を、めぐらせた肩ごし、くもった視界で捉える、無造作に、ごみが捨てられている排水溝の、つめたく穿たれたうつろ、にしかあり得ないことを、いつしか彼は知っていた。
作品名:いろ褪せ烏のとおい行水 作家名:ちず留