千人針
旅立ちを前に、水戸部凜之助は苦悩していた。
「凜兄、そんなに心配することないって。凜兄がいない間くらい、私達でやれるから」
いちばん上の妹が、強がりを口にする。彼の不安を払拭するように、つとめて平静を保った口調。しっかり者の彼女の気遣いがありがたくも、なおさら家族との別れが胸に迫った。
「凜兄ぃ!」
彼の表情に思うところがあったのか、何人かが抱きついてくる。応え抱きしめる。このぬくもりを、決して忘れないように。
「この暑い中、よくやるよね……しょうがない、誰かアレ持ってきて」
あきれたように聞こえるのは、照れ隠しだろうか。そんな妹の声に、弟の一人が一枚の手拭いとマジックを持ってきた。
「みんな、凛兄の名前ちょっとずつ書きな」
水戸部凜之助。弟妹の手によって、名前が少しずつ綴られてゆく。
「はい、凜兄。コレを私達だと思って、安心して行ってきなよ」
綺麗に折りたたみ、妹はそれを兄に差し出す。もしかすると、帰ってはこられないかもしれない。そんな彼の無事を祈る家族の想いが、一枚の形となり、そこにある。水戸部はうなずき、受け取った。
「凜兄、気をつけて!」
「行ってらっしゃい!」
「お土産よろしくね!」
「バカ、凜兄は遊びに行くんじゃないんだぞ」
弟妹が口々に叫びながら長兄に飛びつく中。
「……無事に帰ってきてね」
水戸部と目が合い、妹はひとことつぶやいた。
「……ってことがあったんでないかい?」
小金井をはじめ、誠凜高校二年バスケ部員の視線は水戸部の頭上にそそがれていた。そこには、ネーム入りの手拭いが巻かれている。
「千人針じゃあるまいし。や、つい最後まで聞き入っちまったけど」
日向が呆れて首を振る。
「せんにんばり?」
聞き慣れぬ言葉に、小金井がきょとんとする。
「戦争んとき、出征する男の無事を祈って、千人の女が赤い糸でひと針ずつ縫った布を渡したんだ。ソレのこと」
「さすが日向、日本史が得意なだけあるなあ」
土田が感心する。
「あ! 『戦場には行かせんじょう』!」
「伊月、オマエ練習三倍にしてもらえ。口聞く元気がないほうがいいぞ」
「ひどっ」
伊月が小さく抗議すると、隣で木吉が目頭を押さえた。
「やべ、泣けるわ……」
「何言っちゃってんの木吉!? 我ながら微妙かなーって思ったけど、伊月のダジャレのほうに泣けてるならスゲー屈辱な気がするし」
尋ねる小金井の声には、驚愕と不本意とツッコミ成分が含まれている。
「で、コガの妄想話はどこまで当たってんの?」
土田が問うと、水戸部は微妙な角度でうなずく。
「当たらずとも遠からずかあ。いい兄弟だなあ」
今度は深くうなずいた。
「そろそろ朝飯だ。行くか」
日向に促されるように、他の面々も立ち上がり部屋を出る。
「去年よりはまだマシだよな、体力ついたし」
「まーキツイのはキツイけど、本気で死を覚悟する回数は減ったかも」
朝食後は、それこそ戦のような練習が始まる。せめて今だけは、と和やかに談笑しつつ食堂へ向かった彼らを迎えたのは、「おはよ!」と元気な声だった。
「朝ごはん、ちょうどできたところよ!」
右手に包丁、上半身には赤い血しぶき。猟奇的な彼女は、にっこりと笑う。
「ゴメン、オレ前言撤回……毎食のように死を覚悟してるわ」
「少なくとも水戸部は、妹さんと弟くんたちのために生き残れよ」
小金井と土田の力ないつぶやきに、水戸部も青ざめたまま首を縦に振る。
「あ、これケチャップだから心配ないわよ。それより今日も遠慮せずに、いっぱい食べてねっ」
水戸部の顔色を気遣ったのか、リコが否定して包丁をひらひらと振る。血しぶき、もといケチャップがさらに飛び散る。
テーブルの上には、人数分の食事が準備されていた。もちろん、丼にてんこ盛りの白飯ももれなく鎮座している。
「今日もノルマ三杯以上な」
すっかり恒例になった日向の一言を聞き、誠凜二年はため息混じりに「いただきます」と手を合わせる。覚悟を決め、箸を取る。
戦いはすでに始まっていた。