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4320回のキス

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彼と世間的に「恋人」と呼ばれる関係に至るまでの時間は相当に長かった。
自分自身、素直になれない性格である事は理解しているしハッキリ言えば難しい奴だとも思っている。そしてゲイの自覚だって持ってはいなかった。女性に興味が全くない訳ではないので、部類的には中途半端なのかもしれないが、少なからず今の自分の興味対象と恋愛対象が向けられている相手の性別は男で、俺も生物学的には男に分類されている。

しかし自分以上に難しいのは彼の方であった。
彼は自分とは違って己をゲイだと初めから知っていたようだし、何より男に対しての恋愛感情をストレートに表現していた。とは言うものの彼は小春先輩一筋だったことは周知の事実である。
とまあ始めの方だけ聞けば、俺の自覚さえハッキリすれば事はすんなり行くようにも見えるかもしれない。しかし彼と俺にとってやはり『小春先輩』という存在は大きすぎた。
彼の気持ちを自分に向かわせようという思考に至るまでの自分の中の葛藤もそれなりに長かったが、何より彼、ユウジ先輩の瞳の中に俺が"男"として映るようになるまでの時間は相当な物である。具体的に言えば中学生生活の1年強はそれに消えたかもしれない。
学年が違う俺達にとっては苦もなく共に過ごせる重要な時間であったというのに。

とまあ、心の中で愚痴ってしまうのは自分の悪い癖だが、今となってはもうどうでも良いことなのかもしれない―…自分の真横で眠る彼をみて、ふとそんなことを思う。

「も…う食え…へん…」

先輩の口からムニャムニャと途切れ途切れに飛び出した言葉に、「どんだけデフォルトな夢見とんねん」と思わず声に出して笑いそうになるが、疲れて眠る先輩を起こすのも何だか悪いので俺は口の中で震えながら笑いをかみ殺した。

何時ぞやか忘れたが、不眠症気味で寝付くまでかなりの時間を労する事があるという話も聞いたこともある。ならばせっかく心地よく眠れているのを起こすのは余計に忍びない。
本当なら抱きしめたいところだが、彼の髪の毛に触れてそっと撫でるだけに収めておいた。

「髪、意外にサラサラやな…」

先輩を起こさぬようそっと頬に垂れていた髪をすくい上げる。
癖が少し入っているその髪は俺の髪の毛よりも柔らかいもので少しだけ湿っていた。
確か行為の前にシャワーを浴びているはずだから、その時のがまだ残っているのであろう。

普段、部活でも授業中でもつけているバンダナを取った彼の顔は、周りにいる同年齢の人々に比べて幾分幼かった。周りが老けすぎているという説も拭いきれないが、多分普段からバンダナを付け続けているせいもあるかもしれない。

そういえば、あのバンダナは先輩の手作りなのかと思いきや小春先輩から貰った物らしい。
話を聞いた当初は酷く嫉妬したものだが、今となっては何というか微笑ましくも思える。
でも、やはりちょっとだけ複雑なのはご愛嬌だ。

「ん…?ひかる?」
「あ、スイマセン。起こしました?」

眠っていたはずと思いきや、気付くと彼の瞳はボンヤリながらも開かれて自分を凝視している事に気付いた。「しまった、起こしてしまったか?」と思ったのだが、彼はほんのり笑って「ちゃうよ」とだけ寝起き特有の掠れたポツリと呟く。

彼はモゾモゾと瞼を手で擦りながら、フアアと大きくあくびをした。
自分も何時ぞやか謙也さんに「懐かない黒猫」と比喩されたことがあるが、ユウジ先輩も十分に猫のようである。まあ謙也さんは一生知らなくてもいいことなのだが。
そんなことを考えながらいつの間にか気付かず笑ってしまっていたのか、ユウジ先輩は俺の顔を見ながらキョトンとしていた。

「光、眠れへんの?」
「いや今から寝よかと思ってたところっすわ。恋人におやすみのキスでもしてから」

俺がそう言うと先輩は少しムッとした顔をして「…アホ」と小さく言葉を落とした。
普段からこういう類の言葉をポロポロ零しているというのに、ひょっとしたら寝起きは機嫌が悪いタイプなのかもしれない。自分もどちらかというとそう言うタイプのため気持ちはよく分かるが。

今まで行為に至った事は数回あれど、お互いの家庭事情や環境が災いしてこうやって二人同じベッドで眠った事はなかった。嫌な話だが、まあヤって終わりというか何というか。
今日はたまたま自分の家族が勢ぞろいで旅行に行ったため、先輩を呼ぶことが出来たのである。

「…すんません」

ムーと唸る彼の髪の毛をそっと撫でたあと、枕元に置いていた携帯電話を開いて時間を確認する。 AM2:30―…確か明日は朝練が中止になって練習開始が朝10時からに変更になったから、準備時間を含めるとユウジ先輩といられるのは6時間というところか。
一日の4分の1とはいえ少なく感じてしまうのはどうしようもない。

ハァと溜息を吐き出し、念のため携帯電話のアラームを設定している時だった。
行き成り背中に腕が回って、自分の顎の部分に柔らかい感触が当たる。
先ほどまで触っていた先輩の柔らかい髪の感触だ。
ほんのりシャンプーの淡い匂いが鼻に飛び込み、息が出来なくなるほどの動悸を感じる。

「先輩…?」
「…起きとる時にしてくれへんと、俺、損やんけ」

耳を澄ませていなければ聞こえないほどのささやく声。
でも一字一句逃さず俺の耳に飛び込んできた。
ひょっとしたら、彼が唸るほど機嫌が悪くなったのはこういうことだったのだろうか?

急に胸に何かが詰まったような感覚が俺の胸に飛び込んでくる。
ああ、彼のことがすごく、すごく愛しい。

「じゃ、遠慮なく」

そう言うと彼は恥ずかしそうに頬を紅く染めた後、少しだけ顔を緩めた。
5、4、3―…。秒をカウントするように彼の髪を撫でて、2、1―そっと顔を寄せる。
沢山の時を共に過ごしてきたが、この5秒は何時だって至福の時間だ。残りの時間、苦労ばかりだったとしても全てが報われる。

「ユウジ先輩、好きや」

耳元で囁くようにして呟けば、背中に回った手が俺の髪をキュッと掴んだ。
俺たちの"朝"が来るまであと、21600秒。
作品名:4320回のキス 作家名:みやこ