長い夜
その先には屋外との寒暖の差で真っ白に曇った窓のほんの隙間から、ボオっと黒い空を見上げる一氏ユウジの姿があった。
付き合うようになってから、どちらかが鍵当番を任された際、もう片方がその仕事を終えるのを待つのは既に日常茶飯事の出来事になっている。ほんの数ヶ月前、いがみ合っていた仲とは思えないその打ち解け具合に、初めは部員達も茶化していたものの、最近ではあまり関わってくることはない。というよりも、自然になったと言うべきか。
普段、人前でそこまで露骨な愛情表現をしないから当然なのかもしれない。
何も知らない者から見れば、ただの仲の良い先輩と後輩に映るだろう。
その関係性に不満がない、と言えば恐らく嘘になる。
普段クールに見られがちな財前だって、人並みの欲望位持ち合わせているのだ。
いつだって何処でだってキスしたいし、小春と抱き合っていれば、間に入って引き剥がしてしまいたい。
だけれども、どうしていいか分からない。
下手に欲望のままに動きまわって嫌われるのだけはゴメンだ。
そんな事で一氏と触れられなくなってしまえば、立ち直れる自信なんて財前にありはしなかった。
「…財前、日誌、終わったん?」
「…え?…あ…」
ふと目の前から掛けられた声に、財前はハッと肩を揺らして、思わず持っていたペンを床に落としてしまった。
コロコロと軽い音を立てながら、シャープペンシルが一氏の足元にまで転がっていく。
「まったく、ボウっとし過ぎやで」
「…すんません」
上履きのつま先に当たり回転を止めたペンを一氏はひょいと拾い上げ、困った顔で自分を見つめる財前の方に差し出した…はずだったのだが。
「…!ちょ、ユウジ先輩?」
「…お前、どしたん?」
ペンを貰おうとして伸ばした財前の手を、一氏は一気に掴み、自分の方に引き寄せる。
当然、二人の間を阻む障害物なんてないおかげで、財前の身体は吸い寄せられるかのようにして一氏の方へとバランスを崩し、結局もたれ掛かるような形で倒れ込んでしまった。
「最近、俺の方ばっか見て何か考え込んどるやろ」
「…べ、つに」
「…ひょっとして欲情しとる、とか?」
「…っ!」
耳に吹きかけるようにして呟いた一氏の声に、財前は思わず顔を上げ、赤くした頬を隠すことなく驚いた様子で一氏の顔をマジマジと見つめる。
しかし驚いたのは一氏の方もである。冗談で呟いたはずの一言に、ここまで反応されるとは思ってもいなかった。
「…え?ひょっとして図星、とか」
「…アホ先輩」
「な、何やねん!」
自分と同じくらいに顔を真赤にさせた一氏を、財前はお返しと言わんばかりに強く抱き締め返す。
「先輩、俺、うぬぼれてもええの?」
だって考えもしないような事だったら、この人の事だから冗談だとしても、きっと思いつきもしないのだろう。
何せ財前が告白した際も、本気と信じてもらえるまでエラく時間がかかったのだ。
不満を感じていた…欲求不満だったのは財前だけじゃなく、一氏自身も少しは感じてくれていたのだろうか…。
財前はニヤつく口元を抑えながらも、強く強く、一氏を更に抱きしめる。
「ちょ、財前、苦しいっ…」
「…先輩、俺の名前よんで」
「…え、それ、は二人だけの時って」
「ええやん、いま俺達しかおらへん」
財前がそう言うと、一氏は少し迷ったように目線を周囲に這わせたあと誰もいない事に安心したのか、少し恥ずかしそうにおずおずと口を開き、小さく「光」と呟いた。
学校の中では未だ呼んでもらったことの無かった自分の名前の響き。
その響きを耳にした途端、財前の心臓は自然と鼓動を早め、世界から隔絶されたかのように、彼にしか興味を持てなくなる。
もっと名前を呼んで、俺の、名前を。
「…それだけでええの…ん?」
「俺、もう我慢なんかせえへんっすよ?」
「…ええよ」
一氏と視線があった瞬間、財前はピキンと世界が時を止める音が聞こえたような気がした。
本来ならばさっさと鍵を締めて帰宅しなければいけない時間だ。
今年最後の学校開放日である今日は、同時に明日から始まる学校閉鎖日に向けて普段より早い時間に門が閉められてしまう。
閉じられれば、出るのは少々面倒な事になるだろう。
だけど、もうそんなのどうでも良かった。
いま、俺は、あんたに欲情している。
「先輩、部長のお小言は後で一緒に聞きましょうね」
「…まあ年忘れと一緒に忘れたるから、まあええよ」
そですかと呟いた財前の声を遮るようにして、一氏が財前の唇に噛み付いた。
それを合図に、二人の影が暗くなった部室の影へと吸い込まれるようにして消えていく。
二人の『今年』はもう少しだけ、続く。