笑う勝者に祝福を
ワールドカップ最終日。既にドイツチームは昨日の戦いで3位と確定している。あとはドイツチームを破り決勝戦まで駒を進めたスペインチームの進退を見届けてやるだけだ。と、熱気溢れるスペインのバルで他人事のような顔をしてタパスを摘まんでいたプロイセンは、延長戦にもつれこみ一層ぴりぴりとした雰囲気に包まれた空間でどうにも居心地の悪い思いをしていた。
「勿論プーちゃんは俺の応援してくれるやろ?」
そう言ったスペインに有無を言わせず引っ張って来られたが、90分を過ぎ、延長戦の前半が終わっても未だに両チームとも得点ゼロ。正直言って昨日の3位決定戦の方が余程見どころの多いいい試合だった。さすがはドイツ。俺の誇り。
そしてそのドイツチームを破ったスペインには優勝を勝ちとって貰わなければならない。ここで負けるようなチームに我がドイツ代表が負けたなんて事になったらとんだ名折れだ。
が、それにしても場違いだ、とプロイセンは思う。さすがに画面に釘付けになって必死にスペインコールをする程には盛り上がれない。ワイングラスをそのうち割れるんじゃないかと思うような強さで握るスペインに気押されて、プロイセンは延長戦の続く画面から目を離して目の前のテーブルに置かれたフリートスをつまんだ。多分何かの魚介類だろう。あまり詳しくないから分からないが、とりあえず旨い。
その時バル全体がどよめいた。はっとプロイセンは顔を上げる。さっきまで何の動きも見せなかった数字が変化して、スペインの先制点を示していた。どうやら決定的な瞬間を見逃してしまったらしい。
「やったで! その調子や!!」
スペインが画面に向けて、もとい南アフリカのサッカー・シティ・スタジアムに向けて叫ぶ。最早プロイセンをここに引っ張ってきているなんて覚えてもいないんだろう。
延長戦後半は始まって10分を過ぎている。残り5分。ロスタイムを入れても7,8分という所だ。
これまでの100分以上の間、決定打を入れられず無得点のまま攻めあぐねている相手チームがその数分で追いついて来れるとは思えない。けれど油断は禁物だ。勝負事に絶対なんて無い。こうなってくるとプロイセンの方も画面から目が離せなくなる。
試合の行方に集中してしまうと時間の進みが酷く遅い。ネイビーブルーのユニフォームに身を包むラ・フリア・ロハの足下からボールが離れる度にバルのどこからか心臓がきりっと痛むような叫び声が響く。残り5分。4分。3分。2分。1分。期待に空気が熱く染まる。勝て。おそらくこの場にいる観戦者は一様にそう思っているだろう。プロイセンも祈るような思いでフィールドの上を行き来するボールの行方を凝視する。そして表示されたロスタイムは2分。後少しだ。1分。頼むこのまま。次の瞬間、ざわめきが弾けた。
「やったでえええええええ!!!!!」
祈るような仕草でテーブルの上に肘を付いていたスペインが勢いよく立ち上がった。吠えるような叫びにバル全体が呼応したようだ。建物が揺れんばかりに歓喜の声が上がる。その渦に巻き込まれるようにしてプロイセンも立ち上がると勝利を祝って叫んだ。旗が振るわれ楽器が激しく鳴り響く。
どうや、と言わんばかりの視線でスペインが周囲を見回した。興奮状態を隠そうともしないスペインの視線は激しく熱を孕んでいる。
見ろ。世界の頂点や。
そうスペインが自信に満ちた笑みを浮かべる。いつもの気の抜けるような笑みを見慣れてしまっていたのに、その表情は恐ろしく彼に似合った。普段は潜めて滅多に見る事の無いこれも、また彼の本性の一端なのだと長い付き合いのプロイセンは知っている。
「ス、ペイン……」
プロイセンはいつの間にか彼の名を呼んでいた。思ったよりも上擦ったその声が届いたのか、隣に立っているスペインが振り向いてプロイセンの肩を抱く。熱気に押された乱暴な仕草が、この時ばかりは堪らなく興奮を煽った。
スペインが勝者の笑みを浮かべたままプロイセンと目を合わせる。バルの熱気と、極近距離にいるスペインの声を聞き取るのも難しいような歓喜の声。それが混じり合わさって余計に混沌とする。
「見事だったやろ、プーちゃん」
抱き寄せられたスペインの肌も声もバルの熱気に染まったように熱い。熱に引き寄せられるように、プロイセンは目の前の肌、スペインの首に噛みついた。おかしい程にどこもかしこも熱い。
「……っ」
がしとスペインがプロイセンの後ろ頭を掴む。髪を掴まれ後ろに引き戻される。走った痛みと目の前の噛み痕の残った浅黒い肌。はたと気付いてプロイセンは顔を上げた。
「あ、いや違うんだ! なんかお前がすげぇカッコよく見えて!! いや違う、間違えた、忘れろ、なんでもねぇ!!」
慌てて叫ぶが自分でも何を言っているのか分からない。支離滅裂もいい所だ、突然噛みついた事に対して何の説明にもなっていない。
スペインはプロイセンの髪を掴んだまま笑っている。にやりと表現するのが正しいようなタチの悪い笑みだ。
「痛いやん、プーちゃん」
その声だけで彼が興奮しているのが良く分かった。スペインの乱れて掠れた声がどうしようもなくプロイセンを刺激する。お返しだとでも言うようにスペインがプロイセンの首に噛みつく。歯を立てられた感触に背筋が震えた。
「出よか」
皮膚をくわえたままそう誘うスペインの声が、直接肌に響いたような気がする。プロイセンを見上げるスペインの視線に体の芯が疼く。
「……でも表彰式が」
「ええから」
腕を引かれプロイセンは慌てた。今はまずい。彼は言うまでも無く、すっかり自分まで勝利の歓喜に酔わされている。
「プーちゃん抱きたいわ」
彼の高ぶりを伝えるような掠れ声はどこか甘い。それと同時に、画面に大写しになったトロフィーを受け取る代表の映像にまた大きな歓声が湧いた。治まる事無く幾度も繰り返しどよめくバルの中は息苦しい程だ。一人二人いなくなったとしても誰も気にはしないだろう。いやそんな事はどうでもいい。治まらないのは自分も彼と同じだ。
「優勝のご褒美だ、好きにしろよ」
プロイセンが精いっぱい媚びた表情を見せつけてやると、スペインが得意げな顔で笑い返した。