この恋はここにない
「すみません……僕、帰った方がいいですか」
繰り広げられる有り得ない世界を傍観する帝人は、彼らに告げた。果たして彼らに届いて響くか、と言えばそれはまた別の問題なのだが。
黒く艶やかに光る髪を煽られた風に晒しながらも、鋭い眼差しはそのままで口許には微笑さえ携えた青年は絶えずさえずっていた。調子ずいた笑い声は嘲笑と呼んで差し支えないだろう。その証拠に、嘲笑う青年の前にそれこそ鬼のような形相で顔を歪めている金色の髪の青年はひどく不愉快そうだ。
「やだな、帝人くん。帰るだなんてそんなこと言わないでよ」
さみしいよ、なんて甘く囁きながらもどこか狡猾そうな笑みに帝人の足は一歩後ろへと下がる。黒い色が好きなんだろうか、と思わずにいられないほど彼の印象は黒だ。それがまた似合いなので憎らしい。微笑む表情の甘さは毒を孕んでいそうで、そのことに気が付けなければ誰もが彼に良いように扱われるのだろう。そんな彼を帝人はそれでも、嫌ってみることができないでいた。それが自分の甘さだと気付いていたが、見てみぬふりをした。
「最近、帝人くんてば俺に全然構ってくれないんだもの。さみしすぎて会いに来たのに……どうして、どうしてどうして、シズちゃんなんかと一緒にいるの?あ、もしかしなくともシズちゃんが無理やり連れ出してるの?やっぱり?だよねー、おかしいもんね。こんな単細胞と一緒にいるってことが!」
男の言葉に何と答えていいのか躊躇われて、尻込みしてしまう。けれど、彼の語尾に被さるようにして鋭く空気を裂いて道路標識が飛んだ。あまりの速さにそれが一体何の標識であるのか帝人は確認できなかった。そして、標識が飛ぶという非常識さを咎める余裕もなかった。
はじめからそこにありましたよ、と言わんばかりに標識が地面へと刺さる様は普通のようでいて普通ではない。何故なら、堂々と舗道の真ん中に標識は存在しないので。
それに、標識とは大体が真っ直ぐに地面と垂直に立てられているというのに帝人が見つめているものは、どういう訳かところどころ歪に曲がっていて明らかに人が握ったと判るほどに指の跡さえ残っているのだ。おかしい。
「その名前で、呼ぶなって……何度言ったらわかんだノミ蟲…ッ!!」
「それを言うなら、俺だって折原臨也って名前があるんですけどぉ」
「俺にも平和島静雄って名前があんだよ。それに、てめぇには蟲で十分だ、むしろ人間に謝れ。そして死ね」
「ちょっと笑わせないでくれる?――人外が偉そうに喋んないでよ。そっちこそ生まれてきてごめんなさいとか言えないわけ?地面に額擦り付けて、最後に死ねばちょっとは感謝されるんじゃないの」
「こ、の野郎…っ、殺す…!今すぐ殺す!てめぇが死ぬのを待ってられねぇから俺が今すぐ、直ちに俺の手で殺す!」
「は!低脳な奴はこれだから。――できないだろうから、やってみろよ」
続く破壊音に耳を塞ぎたくなった。目の前に広がる殺伐とした争いに溜息をひとつ洩らしたところで、帝人はあきらめた。
本来ならば、標識を投げてみせた方の青年と共に出掛ける予定だったのに。それが折原臨也という青年の登場で脆くも崩れ去ったことは明白だった。
零した溜息を拾うべき人物は、今度は標識ではなくよく見かける赤い自動販売機を手にしたと思えばそれをいとも簡単に放り投げた。
響いた重く、金属がひしゃげた音をきいても帝人は目を逸らせただけで、もうその場を離れるという選択肢を捨てた。落ち着くまで待つしかない。そう結論付けた帝人は害の及ばないであろう場所までそっと移動した。
(……臨也さんも狙ったかのように、静雄さんと一緒のときに来なくていいのに)
告げることのできない言葉は、今日もまた帝人の心中で繰り返されただけに終わる。それがいいのか、悪いのかそれももう、わからない。
ビルの合間を静雄の怒号が響き渡っているのを音楽に、彼が帰って来たらどこに行こうかなんて考える帝人はもはや彼らの争いに慣れきっていた。止めることもかなわない。それは自分でも理解していた。
「早く帰ってこないかな……」
まだ空気を震わせるように、静雄の怒声が今日も池袋の街に響く。
トレードマークのようなバーテンダー服が帝人は好きだ。姿形が好きだ。不器用ながらも優しく、戸惑いながら触れてくる手なんてどう形容すればいいのかわからないほど。声も、目も、口も、手も、足も。
けれど、こうして帝人以外を彼の思考を占拠することは少し、遠慮したいと思うのだ。でも、告げても困らせるだけだと知っているから告げない。
待つことはいい。戻ってきてくれることを知っている。慌てたように、申し訳なさそうに意志の強そうな眉が情けなく下がるのを見ることも、帝人は好きだから。それでいいのだ。