NとS
艶のある黒髪も、挑発的な赤い瞳も、ただひたすらに魅力的だった。見る者全てを圧倒する何かを、彼――折原臨也はもっていたのだ。だが同時に、どこか狂った人間だということも、静雄は理解していた。
ベッドが軋む音がして、静雄は顔を上げた。いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。
臨也は上半身を起こし、小馬鹿にするような笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「ひょっとして、シズちゃんが手当してくれたの?」
臨也が声をたてて笑う。静雄は完全にそれを無視し、彼の首筋を見やる。包帯で巻かれたそこは、うっすらと血がにじんでいた。
昨晩の殺し合いは、久しぶりに血の多いものだった。はっきりとしたことは覚えていないが、静雄は今度こそ臨也を殺すつもりだったはずだ。普段の殺意が本物でないとは言わないが、より明確に、こいつを殺さねばならないと思った。
静雄が本気になれば、臨也は赤子同然だった。
気づいた時には臨也が血まみれで倒れていた。
あれだけ出血していたにも関わらず、たったの一夜でだいぶ回復したらしい。静雄を「化け物」と言って忌み嫌う臨也だが、自分自身も常人よりは身体能力が高いと自覚しているのだろうか。疑問を抱きながら、そのまま椅子から立ち上がる。
途端、後ろから声が降りかかった。
「甘い、甘すぎるよ、シズちゃん」
彼は振り向かず、ぴたりと静止する。
「君はどうして俺を殺さない? 殺せないわけじゃないだろう、だって昨日、俺は本当に死にかけたんだから」
それなのに、生きている。他でもない、化け物の手によって救われたのだ。
臨也は憎々しげにそう言って、体を後ろへ傾けた。そのまま、再びベッドへ沈む。静雄もまた椅子に戻り、臨也の目を真っ直ぐに見つめた。
――今日は、関わり合いにならないほうが良さそうだな。
彼の瞳に宿る確かな狂気を感じ取り、顔を背ける。
仮に静雄が言ったとしても、彼は否定するだろう。彼の中に眠る狂気。決して自らの意思で蓋をあけることはない。それでもふとした瞬間や心が弱ったとき、不意にそれは溢れだす。
「ねえシズちゃん、君は自分が化け物でなくなる可能性を考えたことがある?」
なぜ、臨也の言うことに耳を傾けてしまうのだろう。
理屈ばかりこねる言葉は大嫌いで、だからノミ蟲と呼び、自分から遠ざけるために何度も殺し合いをした。それでも彼は静雄から離れず、人の神経を逆なでするような笑顔で言うのだ。
今日も始めようか、シズちゃん。
「地球には、宇宙からの放射線が降り注いでいる。それでも地球上の生物は死なない。それは、地球が大きな一つの磁石だからだよ。北極がS極、南極がN極と決まっているんだ。だから地球の周りには、巨大な磁力線がある」
「……あぁ?」
「まあ、最後まで聞いてよ。それで、その磁石だけどね。数千万年、もしかしたら数億年単位で、N極とS極が入れ替わっているんだ」
何を言いたいのか、さっぱり分からない。
苛立ちを募らせながら、それでも自制心を覚えた静雄はここで力を発揮しなかった。臨也は握られた彼の拳を見て、ははっと渇いた笑いだけを零す。そしてそれ以上の反応は示さずに、天井を見上げた。
「地球にとってN極とS極が入れ替わるそれは、ほんの瞬間的なものだ。けれど、俺たち人類を含め、地球に住む生物にとってはどうだろう。彼らの寿命は長く見積もっても百年だ。地球の『瞬間』は、生物にとっての『数十年』なんだよ。
そしてその『瞬間』、地球の磁界はひどく不安定になる。すると磁力線は消え、今までその流れに沿って空中で爆発していた放射能は、容赦なく地球を襲うようになる。
原子爆弾を、聞いたことがあるだろう? 日本に住んでいて、知らないはずがないよね? あれは放射能によって、たくさんの人が亡くなったんだよ。シズちゃん、これがどういうことか、分かる? それとも、シズちゃんのような脳みそ空っぽの馬鹿には、分からないかな?」
挑発するような口調とは裏腹に、臨也の目は鋭い光を帯びて静雄を見つめている。
静雄は理解を諦めていた。臨也という人間の価値観も、理屈も、言葉も、はなから理解する気が起きなかったのだ。自身の論理を、相手に説くつもりもない。だからただ静かに、その言葉を受け止める。臨也はそれを不服とはしなかった。
「あっはははははは!」
突然、彼は狂ったように笑いだす。
ははは、はは、あははは。笑い声が、静雄の耳の奥で反響する。
「うるせえ」
「信じられる、シズちゃん! 俺ももしかしたら、『人間』でなくなるかもしれないんだよ!」
静雄の言葉など、まるで聞こえていないらしかった。
臨也は自分の見たいものを見て、聞きながら、なおも口を閉じようとはしない。
「今この瞬間、NとSが反転するかもしれない! そうして、放射能が降りかかって来るかもしれない! 俺たちの人生はそこで終わるか、もしかしたら、突然変異の『怪物』になるかもしれない!」
かもしれない、かもしれない。全ては所詮、仮定だ。狂気はより一層明確なものとなり、静雄はもう、彼の瞳を見返すことができなかった。虚空を仰いで、小さく嘆息する。
「信じられる? 人間を愛する俺が、人間のいない地球で、怪物になるんだよ。シズちゃんさえ死んでいるかもしれないその状況下で、俺はきっと、怪物になるんだ」
狂人のうわ言。そう、うわ言だった。
それでも静雄は、聞くことをやめない。彼をねじ伏せ、口を閉ざさせはしない。なぜだろう。自問自答するも、やはり答えは返ってこなかった。
「ああ、おかしいねシズちゃん。NとSが反転すれば、俺たちも反転するかもしれないんだ。これほどおもしろいことは、早々ないよ」
「何がおもしれえんだよ。胸クソ悪い」
「そうだよシズちゃん、放射能で死ぬようなモノは化け物なんかじゃないんだよ! ただの人間だ! ああ、ああ、そうだよシズちゃん、君が人間になる!」
同じ言葉を幾度となく繰り返し、臨也はベッドから飛び降りた。傷は完治していないだろうに、そんなことを全く感じさせない動き。軽やかにステップを踏みながら、脇に置いた上着を拾う。
それを着こみながら、嫌な笑いを浮かべた。
「ああシズちゃん、君が人間になるなんて全く楽しみだよ」
「……手前の言うことにゃ、俺が『人間』になる時は死んでるんじゃねえのか」
一瞬驚いたような顔をして、爽やかに笑う。
「シズちゃんは人として死ぬ。俺は化け物として死ぬ。それで不服なの?」
――なぜだろう。
静雄を化け物と呼び、それ故に彼だけは愛さない臨也。もう気にしていないと言いながらふっ切ることができずにいる静雄を、彼は完全に見透かしていた。
臨也の愛する「人間」と呼ばれるものになりたいと、静雄は思うのだ。そして臨也もまた、人間を愛すが故に己を嫌い、「化け物」になりたいと羨望している。お互いが決して口に出すことはない。それでも知っている、暗黙の了解。
分かり合うことさえしたくないと嫌悪しているのに、分かり合わずにはいられない。
自分たちは、何をしているのだろう。
「ねえ」呼ばれ、ちらとそちらを見やる。「もしもシズちゃんが人間になれずに、俺が怪物になれずに生き残ったとしたら、俺たちどうなるんだろうね」
ベッドが軋む音がして、静雄は顔を上げた。いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。
臨也は上半身を起こし、小馬鹿にするような笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「ひょっとして、シズちゃんが手当してくれたの?」
臨也が声をたてて笑う。静雄は完全にそれを無視し、彼の首筋を見やる。包帯で巻かれたそこは、うっすらと血がにじんでいた。
昨晩の殺し合いは、久しぶりに血の多いものだった。はっきりとしたことは覚えていないが、静雄は今度こそ臨也を殺すつもりだったはずだ。普段の殺意が本物でないとは言わないが、より明確に、こいつを殺さねばならないと思った。
静雄が本気になれば、臨也は赤子同然だった。
気づいた時には臨也が血まみれで倒れていた。
あれだけ出血していたにも関わらず、たったの一夜でだいぶ回復したらしい。静雄を「化け物」と言って忌み嫌う臨也だが、自分自身も常人よりは身体能力が高いと自覚しているのだろうか。疑問を抱きながら、そのまま椅子から立ち上がる。
途端、後ろから声が降りかかった。
「甘い、甘すぎるよ、シズちゃん」
彼は振り向かず、ぴたりと静止する。
「君はどうして俺を殺さない? 殺せないわけじゃないだろう、だって昨日、俺は本当に死にかけたんだから」
それなのに、生きている。他でもない、化け物の手によって救われたのだ。
臨也は憎々しげにそう言って、体を後ろへ傾けた。そのまま、再びベッドへ沈む。静雄もまた椅子に戻り、臨也の目を真っ直ぐに見つめた。
――今日は、関わり合いにならないほうが良さそうだな。
彼の瞳に宿る確かな狂気を感じ取り、顔を背ける。
仮に静雄が言ったとしても、彼は否定するだろう。彼の中に眠る狂気。決して自らの意思で蓋をあけることはない。それでもふとした瞬間や心が弱ったとき、不意にそれは溢れだす。
「ねえシズちゃん、君は自分が化け物でなくなる可能性を考えたことがある?」
なぜ、臨也の言うことに耳を傾けてしまうのだろう。
理屈ばかりこねる言葉は大嫌いで、だからノミ蟲と呼び、自分から遠ざけるために何度も殺し合いをした。それでも彼は静雄から離れず、人の神経を逆なでするような笑顔で言うのだ。
今日も始めようか、シズちゃん。
「地球には、宇宙からの放射線が降り注いでいる。それでも地球上の生物は死なない。それは、地球が大きな一つの磁石だからだよ。北極がS極、南極がN極と決まっているんだ。だから地球の周りには、巨大な磁力線がある」
「……あぁ?」
「まあ、最後まで聞いてよ。それで、その磁石だけどね。数千万年、もしかしたら数億年単位で、N極とS極が入れ替わっているんだ」
何を言いたいのか、さっぱり分からない。
苛立ちを募らせながら、それでも自制心を覚えた静雄はここで力を発揮しなかった。臨也は握られた彼の拳を見て、ははっと渇いた笑いだけを零す。そしてそれ以上の反応は示さずに、天井を見上げた。
「地球にとってN極とS極が入れ替わるそれは、ほんの瞬間的なものだ。けれど、俺たち人類を含め、地球に住む生物にとってはどうだろう。彼らの寿命は長く見積もっても百年だ。地球の『瞬間』は、生物にとっての『数十年』なんだよ。
そしてその『瞬間』、地球の磁界はひどく不安定になる。すると磁力線は消え、今までその流れに沿って空中で爆発していた放射能は、容赦なく地球を襲うようになる。
原子爆弾を、聞いたことがあるだろう? 日本に住んでいて、知らないはずがないよね? あれは放射能によって、たくさんの人が亡くなったんだよ。シズちゃん、これがどういうことか、分かる? それとも、シズちゃんのような脳みそ空っぽの馬鹿には、分からないかな?」
挑発するような口調とは裏腹に、臨也の目は鋭い光を帯びて静雄を見つめている。
静雄は理解を諦めていた。臨也という人間の価値観も、理屈も、言葉も、はなから理解する気が起きなかったのだ。自身の論理を、相手に説くつもりもない。だからただ静かに、その言葉を受け止める。臨也はそれを不服とはしなかった。
「あっはははははは!」
突然、彼は狂ったように笑いだす。
ははは、はは、あははは。笑い声が、静雄の耳の奥で反響する。
「うるせえ」
「信じられる、シズちゃん! 俺ももしかしたら、『人間』でなくなるかもしれないんだよ!」
静雄の言葉など、まるで聞こえていないらしかった。
臨也は自分の見たいものを見て、聞きながら、なおも口を閉じようとはしない。
「今この瞬間、NとSが反転するかもしれない! そうして、放射能が降りかかって来るかもしれない! 俺たちの人生はそこで終わるか、もしかしたら、突然変異の『怪物』になるかもしれない!」
かもしれない、かもしれない。全ては所詮、仮定だ。狂気はより一層明確なものとなり、静雄はもう、彼の瞳を見返すことができなかった。虚空を仰いで、小さく嘆息する。
「信じられる? 人間を愛する俺が、人間のいない地球で、怪物になるんだよ。シズちゃんさえ死んでいるかもしれないその状況下で、俺はきっと、怪物になるんだ」
狂人のうわ言。そう、うわ言だった。
それでも静雄は、聞くことをやめない。彼をねじ伏せ、口を閉ざさせはしない。なぜだろう。自問自答するも、やはり答えは返ってこなかった。
「ああ、おかしいねシズちゃん。NとSが反転すれば、俺たちも反転するかもしれないんだ。これほどおもしろいことは、早々ないよ」
「何がおもしれえんだよ。胸クソ悪い」
「そうだよシズちゃん、放射能で死ぬようなモノは化け物なんかじゃないんだよ! ただの人間だ! ああ、ああ、そうだよシズちゃん、君が人間になる!」
同じ言葉を幾度となく繰り返し、臨也はベッドから飛び降りた。傷は完治していないだろうに、そんなことを全く感じさせない動き。軽やかにステップを踏みながら、脇に置いた上着を拾う。
それを着こみながら、嫌な笑いを浮かべた。
「ああシズちゃん、君が人間になるなんて全く楽しみだよ」
「……手前の言うことにゃ、俺が『人間』になる時は死んでるんじゃねえのか」
一瞬驚いたような顔をして、爽やかに笑う。
「シズちゃんは人として死ぬ。俺は化け物として死ぬ。それで不服なの?」
――なぜだろう。
静雄を化け物と呼び、それ故に彼だけは愛さない臨也。もう気にしていないと言いながらふっ切ることができずにいる静雄を、彼は完全に見透かしていた。
臨也の愛する「人間」と呼ばれるものになりたいと、静雄は思うのだ。そして臨也もまた、人間を愛すが故に己を嫌い、「化け物」になりたいと羨望している。お互いが決して口に出すことはない。それでも知っている、暗黙の了解。
分かり合うことさえしたくないと嫌悪しているのに、分かり合わずにはいられない。
自分たちは、何をしているのだろう。
「ねえ」呼ばれ、ちらとそちらを見やる。「もしもシズちゃんが人間になれずに、俺が怪物になれずに生き残ったとしたら、俺たちどうなるんだろうね」