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空に焦がれる

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 夏は暑いからこそ夏という。七月に入って気温が三十度なんかになっても仕方ないと思えるようになった今日この頃、どうしてわざわざ好き好んでエアコンも無い部屋に居るのかと言えば、それは久方振りに会う恋人の願いだったからだ。
 新宿にある自分のマンションに行けば、季節を忘れてしまうくらい快適に過ごすことが出来るだろうに、件の恋人は同じ空間に居る自分の秘書に苦手意識を持っているようで、この関係になってから一度もマンションに訪れたことがない。
 街を二人で歩くのは楽しいし、滅多に他者を上がらせない部屋に居られるのは多少なりとも優越感を擽るものがある。それでも、愛だけではどうにもならないことというのはどうしたってあるもので。
 生まれは普通だが現在の生活は間違いなく勝ち組のそれである臨也は、冷房器具が扇風機のみという古き良き時代を感じさせる現状にいい加減嫌気が差していた。尤もそれは家主である帝人にしても同じだったようで、外出する時にはまずしない露出度の高い格好をしていて、その点だけはこの環境に臨也は感謝していたのだが。
 暑苦しいですよ、などと文句を言いながらも、こうなったそもそもの原因としての罪悪感は一応あるのか、臨也がべったりとくっついても拒否を態度で表わそうとはせず、大人しくされるがままだった。そのことを素直に喜んでいた臨也は、けれど上機嫌だったそれが急降下するものを発見してしまう。
「帝人君、なぁにこれ?」
 するりと足の甲を撫でながら、覗き込むように帝人の顔を見る。
 ファッションには無関心とも言える帝人の足の爪に、鮮やかな色が添えられていた。しかも、何故か左足の小指にだけ。

  それは、例えるならば、そう、処女雪に盛りの椿が落ちたような。

「この前、青葉君が塗っていったんですよ」
「……何で」
「『僕が先輩の唯一にも一番にも特別にもなれないことは知ってます。でもせめて、小指の爪くらいは僕にくれませんか』なんて言うので……可愛いでしょう?」
 同意を求められたって、はいそうですねなんて簡単に肯くことなんて出来るわけがないのだ。臨也は帝人の右腕を気取っている青葉のことが嫌いだったし、それは相手にしてもそうだろう。
 青葉が帝人の前でどれだけ猫を被ってどんな殊勝なことを言っているのか知らないが、臨也にとってはクソ生意気なガキでしかないのだ。それに――
「大体何で青なのさ」
 一瞬青葉の青かと思ったが、そこまで馬鹿じゃないだろうと思い直す。となると、考えられるのはやはり、ブルースクウェアの青……なのだろうか。
「海……みたいなんだそうですよ、青葉君に言わせると、僕は」
 来るもの全てを受け入れて、けれど時として容赦の無い罰も与える。鮫にとっては、深く広い海はさぞかし居心地の良いものなのだろう。
「でもそれなら、もう少しマシな色にしたって良いのに」
 なにもわざわざ、絵の具のような毒々しいまでに原色に近い色にしなくたって良いだろうに。
「……臨也さんなら、僕に何色を塗りますか」
 それは勿論、と続けようとして、臨也の思考はピタリと止まった。帝人に似合う色は、幾らでもある。明るい色も、暗い色も、帝人には違和感無く溶け込むだろう。けれど、イメージカラーは何かと訊かれた時、浮かんで来る色は一つも無かった。
「臨也さんなら、そうですね……漆黒、ですかね」
「それってあの首無しライダーと同じってこと?」
 天命の近い人間が住む家に、死期の訪れを告げて周る不吉の死者の代表。確かに以前は、人間観察の一環として自殺志願者にちょっかいを出していたこともあったけれど。
「黒と漆黒は違いますよ。黒って死とか犯罪とか不幸とかを表しますけど、漆黒は漆みたいに艶のある色ですから。そうですね……丁度、あなたの髪のような」
 遺伝子の関係か、それとも手入れの違いか、同じ民族にも拘わらず臨也と帝人の髪質は大分差がある。帝人はコンプレックスこそ無いが臨也の髪を気に行ってはいるようで、臨也の髪に指を絡ませることもある。
 だから、こういうの烏の濡れ羽色って言うんですよね……という言葉は純粋な褒め言葉で、他意が無いことは分かっているのだ。例え、その言葉には〝絶望の果て〟という意味があるのだとしても。
「全てを受け入れて、塗りつぶして……でも、ただの黒なら、人は惹かれたりなんかしませんよ」
 例えるならば、重ねる程に艶を増す黒漆。
 例えるならば、月も隠れる闇の夜。
 闇より黒い、純粋なまでの――漆黒。
 帝人の言葉は何処か臨也の真実を突いていて、だからこそ帝人に対してそう出来ない自分が不甲斐無いようにさえ感じる。
 青葉は帝人を海だと言ったらしい。彼らしい表現だ。けれどいくら見た目が青だろうが、掬ってみればそれは単なる無色でしかない。それでも、錯覚だろうが願望だろうが、明確な色を帝人に添えることが出来る青葉に嫉妬じみた感情を抱いているのも、また確かで。
 それは多分、臨也が帝人のことを上手く掴みきれていないからだ。
 多くの人間がそうなのかも知れないが、帝人は臨也に全てを見せているわけではない。相手によって、状況によって、それは容易く変わるのだろう。その中に、自分にしか見せない表情が、あれば良いのに。たった一つで構わないのに。
 間違いなく、特別だと、好かれているのだと、確信を持てるような、何かがあれば良いのに。
「……除光液、買ってくるから」
「また塗られるかも知れませんよ」
 全てを自分の物に出来るなんて思ったことは一度もないけれど、だからと言って誰かと帝人を共有する気だって更々無いのだ。少なくとも、こうして目に見える形で所有権を主張されるのは気分が悪い。気に入って無い相手のものなら尚更だ。
「なら、落とすついでに俺が君に塗ってあげる」
「何色にするか決まったんですか」
 一日の始まりは金色に、生き物が活動する時は蒼色に、別れの時間は紅に。その色を変えるというのなら。
「俺と同じ色、だよ……」
 この闇からは抜け出せない。抜け出そうとも思わない。でも、それでも一緒にいたいと願うなら、此処まで堕ちてきてもらうしかないじゃないか。
「次、あの子に許したら爪ごと剥がすからね?」
 早く早く、一刻でも早く、此処まで堕ちてきてくれれば良い。
 闇に浸かって、染まって、抜け出せなくなって、全てを委ねてくれれば良い。
 それが愛ってものでしょ? なんて、開き直るほど傲慢では、ないけれど。
作品名:空に焦がれる 作家名:yupo