夜は遠からず
放っておかれると、容量の少ないグラスみたいにすぐに溢れてどうしようもなくなる。俺の場合は顕著だ。
そうして溢れてどうしようもなくなる前に、処理してしまわねばならない。慣れてしまえれば、溢れることなくおさまるというがその境地に至るのは少し怖い。面倒だというのに、おそろしく感じるのだから可笑しな話だ。
嫌悪感が先にくるがそれができるだけ感じずにいられるように、決められた業務のように半ば機械的に手を動かす。頭の中はからっぽになればなるほどいい。けれど、結局のところは思い出された情景と妄想とが混じり合ってそうして溜め込まれたものは吐き出されるのだ。
いつも身体が落ち着く頃に決まって何ともいえない後味の悪さが漂う。これが振られたり、別れたあととかならよかった。悲しみを糧に、格好悪くとも泣いて没頭して果てることも可能のように思えるからだ。
その気になれば、相手を手に入れられるのだろう。俺のことだから無理やりに手に入れることはできそうだ。けれど、その前に自分の中にあるこの澱みきった感情を吐露してしまわなければいけないことが酷く切ない。解ってほしいわけじゃない、そうじゃなくてありのままを晒してしまうのが怖いのだ。それに、これは自分でも驚いてしまった事実なのだけれど、何よりも傷つけてしまうのが一番に躊躇われた。
もはや、キレイなままの気持ちなどない。だけど、今すぐに駆け出して姿を確かめたい気持ちは変わることなんてなかった。
顔を見たい。瞳の中に映りたい。手に触れたい。許されるのなら唇にも。
好きか嫌いかと問われれば好きだと云える。愛とはこういうことを云うのではないだろうかと柄にもなくそう考えてひとり泣きたくなった。
いつだって俺の感情の脆く幼い部分を揺さぶって、大人の分別を嘲笑うかのように誘惑される。
そんなつもりはないですよ、ときっと情けない笑顔で言うに違いないけど、俺にはそうとしか思えなくて仕方がないじゃないか。
たまに恵まれる二人きりの空間は、ただ与えられた幸せを貰うばかりでじっとしているしかできない。理由もなく触れるなど狂気の沙汰で、いつもいつも笑った拍子に揺れる短く黒い前髪がつくる影を追う。ひどく美しいものを見た気がして、つい凝視してしまうのだ。実際、とても美しく映るのだから仕方ない。
そこには一体、何が詰まっているのだろうと考えて次に、触れてみたらどんな風なのかということを思った。なんと云えば、そこに触れてもいいのだろう。貧相な脳ではとても考えもつかないところに答えはあるように思えた。
名前を呼んで、近付いて、触れて――。それから、それから……。
考え付く全てで愛せたら。
思い切って伸ばす手は届く前に、いつもそこで意識がはっきりする。
「……俺は変態だったのか」
情けなく響く声はもう、何度目かしれない。
夢から覚めたときのように、数回の瞬きが必要だった。身体さえ欲望を吐き出してしまえば、あっけないほどの簡単さでまどろみの中を彷徨っていた。正直すぎて死にたい。
誰の上にも等しく、朝は訪れる。それでいて容赦がない。
目覚めてすぐの景色は決まりきっていた。まだ少し霧がかかったような意識で、見慣れた天井を見つめる。いつも通り変わらない景色がそこにあって、それがひどく嬉しい。
目覚まし時計がもうじきに七時をさすところだ。
意識し始めて、数日。はじめは一日おきくらいの感覚で思い出して、数時間、一時間、分単位。そうして二十四時間ずっと脳内で繰り返し思い出す日が来てこのザマなのだ。
気付いたときにはもう遅くて、取り返しのつかないほどに感情が溢れてしまった。
もう一度、そのことに気が付けたのは、感情が爆発した次の日の夕方、竜ヶ峰帝人と二人で会ったときだった。
コンビニエンスストアの前に立っていて、俺に気付いたようで破顔した顔は本当に情けないほどだ。買い物をしてちょうど出てきたところのようだった。
「こんばんは」
少し高い声が耳に心地良い。夕日に照らされた頬がほんの少し赤かった。
「お仕事は終わったんですか?」
「……さっき、終わった」
「よかった」
「なにが」
「ここで会えて、良かったです」
時間がとまるってあるのか、と誰に告げるでもなく云いたくなった。訳がわからないまま睨むようにして見つめてしまう。
そうすると、彼は照れたように笑った。
「この間、ほら公園でセルティさんと一緒にちょっとの時間でしたけど、好きな食べ物の話をしたでしょう?」
「……あ、ああ」
「それでですね、昨日友達が買ってくれたプリンが美味しかったんで今日はあなたと一緒に食べれたらいいなって」
思ってたんです。
最後まで言葉を聞くことはできなかった。体験したことのない波が身体の内側から押し寄せて、溢れそうになるのを耐えなければいけなかったので立っているだけで精一杯だった。眩暈が、する。
できることなら、このまま押し倒してしまいたいくらいには目の前の少年へ向かう感情は大きい。
ガサガサとビニールの袋が奏でた音で我に返るほど、どうしようもない状態だった。
「平和島さんさえよければ、ご一緒しませんか」
差し出されたデザートより、この後どうしたら目の前の少年を自分のものにできるのだろう、そればかりが頭を占めてやっぱり、俺は変態なんだと小さく呟いた。
彼に聞こえていなくて、何よりだった。大きな円い瞳が不思議そうに返されて、駄目でしたかなんて聞く。そうじゃない。そうじゃないんだ。
「駄目じゃ、ない。食う。食いたい」
「よかった!――えっと、じゃあここじゃ何ですから……そうですね、うち近いですし平和島さんが嫌じゃなければうちへ来ませんか」
「……」
「あれ、平和島さん?」
「…………」
「え、えっと。嫌なら、嫌で、大丈夫です、よ?」
「なぁ」
「へ、あ。はい!」
「――キスしていいか」
「は、…………え?」
もう、変態でもなんでもいい。やめられるはずが、もうない。
引き寄せた腕の熱さに幸せすぎて死ねそうだと真面目に思った。これで唇に触れてしまえば、俺は容量をこえて溢れるであろうものをどう処理していいかわからないままにやめることのできない口付けをそっと彼におとした。流れ出た吐息はすべて飲み込んで、それだけで十分果てそうだと情けなくなった。
ああ、やっぱり俺、変態だ。