彗クロ 1
これは……誰、だろう?
(もう、いいや)
その時、レグルは、
(もう、どうでもいいや)
思考を手放した瞬間を、
(メティなんか)
はっきりと
(もう、知らねー)
自覚した。
「――レグルなんか、もう知らない!!」
膨大な白に満たし尽くされる幸福を、まどろみの入口に感じた。
***
――イニ――シ――ドウ――
***
沁みるような囁きに海馬を揺さぶられ、レグルは愕然と目を見開いた。
いつのまにか、視界は再び横転していた。黴臭い空気が酸っぱい喉を洗って肺を満たした。じめじめとした地下の暗闇を、緑がかった明かりがどこかから照らしているのがわかった。
石畳の冷たい感触から、おもむろに頬を浮かせる。脳髄の灼熱は不思議と去っていた。全身は疲労に重たくて、けれど、よく身体を動かしたあとのような爽快さも感じた。なんだか、生まれ変わったあとのような。
……動ける。
身体の下に潜らせた肘を立て、上体を持ち上げる。重く垂れた首を、急がず、無理せず、ゆっくりと、正面へと立ち上がらせる。ほむら色混じりの見慣れた金髪の隙間から、覗ける世界はまだ少し霞んで見えた。
暗い、暗い、堅牢な石材を積んで四方と上下を囲んだ広大な施設だった。ところどころ無骨な岩肌が覗けていて、どうやら天然の洞穴を整形、補強して造られた空間であるらしかった。下の方からはざわざわとした水音と、黴の匂いに雑じりながらもかすかな潮の香りがするから、どこかで海水を引き込んでいるのかもしれない。
かしこに鎮座する巨大な機材群は、古びてはいるが、蛍光色の間接光を発しながら、今もまだ稼働しているようだった。ヴン……という音機関特有の稼働音波が、下腹に長々と響く。見覚えはない。が、なんとなく知っている。そんな気がした。
正面にあるひときわ巨大な音機関の周囲では、なぜか音素の炎が石の床からまばらに立ち昇っている。明るい金色に鮮やかな焔色を乗せて淡く緑光を放つ輝きは、可視化した第七音素特有の色彩であることを、レグルは知っている。
第七音素は、その大半が三年前に遥か天上の音譜帯へと昇っていったという。いまだ大気中に溶融している残量分も、日を追って減少しつつあるはずだ。目に見えるほど凝集するなんて、よほどのこと……
「――えっ」
かすれた驚嘆が喉を滑り落ちた。
底辺を彷徨っていた視線が、ふと、そこにあるはずのないものを捉えた。
茫然と立ちすくんだような、人の足。
視線を、持ち上げていく。小さなブーツ。コートを兼ねた白い上着。暖かそうな衣服に包まれた身体は、思いのほか小柄。狭い背中の真ん中で、黒々とプリントされたユニークなマスコットが、ちょっと邪悪な笑みを浮かべている。
不可思議な音素の焔に彩られ浮かび上がるそのシルエットには、なんとなく憶えがあるような気がして、けれどどこで見たのか思い出せない。
頂点に君臨する五体の主は、混じりけもない明るい赤毛。
その色に、なぜだろう、とても憧れた。
名前……を。レグルは、知っている。
「……ルーク……?」
これは、夢の続きだろうか――?
鏡像が、振り返る。決して見開かれることのなかった瞳が、レグルを、捉える。
「……レグル」
レグルの色彩をそのまま写し取った緑の宝石から、色のない水滴がきらめく一筋を描いて、生まれたばかりの頬を滑り落ちていった。