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獄中の姫宮-00-

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上から、下へと。

長い年月を掛けて互いを育む水滴が、一定のリズムで落ちていく。

人にはない音。

優しくも、冷たい音。

その中に、今までとは違う音が見出せた。



自然が、幾月幾年もかけて作り上げた作品を壊して、できた道。それは、人の傲慢と、文明の道とも言えるのかもしれない。



そこを歩く、誰かの足音。



この道と同じく人の手によって変えられた、この牢獄へと向かう音だ。

その音と気配に、ここに来るのは、と考えて、久しぶりに穏やかに小さく、言葉を紡いだ。





「…………桐原、公?」





気配を感じて虚空にそう呼びかけると、息を呑んだような音が聞こえた。










**********










「姫宮…!大丈夫か、そなた…」

皺だらけの手が、手首の鎖を緩めて先程までより楽な姿勢に変えてくれた。
立ちっぱなしだった体勢が、鎖の長さを変えることによって座れるくらいにまでなり、思わずホッと息をつく。
足が使い物にならないほど疲れている。歩く…いや、立ち上がる事さえ、今は無理かもしれない。
顔やら腕やら、剥き出しになっている肌から流れている血に桐原公は顔を青くして、懐中電灯の光を柔らかくしてから、血をハンカチで拭ってくれた。

「ありがとう、ございます……」

声も、先日まで喉に構わず使い続けていたためかガラガラだ。

「あまり喋るな……水は飲めるか?腕は、使えるか??」

湧き出している水をコップに入れてくれたらしく、心配そうにこちらを見ている。
試しに腕を軽く振り回してみた。
とりあえず、上下左右九十度は曲げられそうだ。
その仕草にほっとしたのか、水をくれた。喉を通り体の中を行き交う水の気配が、やけに鮮明に感じられる。

「鍵は見つけられなかった…上にはないようだ」
「……はい」

鍵は、おそらく父が持っているのだろう。
これは神鎖だ。
逃がさない為の、呪縛の鎖。



誰を?



自分にしか聞こえない、少しだけ怒りが混じった声が聞こえた。
思わず自嘲に近い笑みを浮かべて、その問いに返す。



勿論、自分を。



ふと、思い出すのは外のこと。

「……あ。お爺様。あの……」
「あの三人なら、何とか無事だそうだ…そなたの行動の方が一足も二足も速かったからであろう」
「あ、では…父…は……?」

桐原公が渋い顔をした。
何となく、予測がつく。いや、もとよりそれ以外の答えは期待していなかった。

「…死んだ。自害したそうだが、官邸という場所柄か暗殺の線も考えられる。柩木の領内におれば心配はなかったものを………あの者は官邸におった。身の危険が分からぬものでもなかろうに」
「………」

瞳に暗い焔が灯った。



やはり、自害したか。



「………その話は後にしよう。食料は持ってきたが、食えるか」

風呂敷の中から取り出されたのは、胃のことを考えてくれたのか、タッパーに入ったお粥。

「……」
「味は保証できんが…固形物では食べれないとも思ってな。これにした。食べないよりはましだろう」
「…え、お爺様が作ったんですか?」

だとしたらすごい快挙である。
とりあえず口に入れてもらうと、確かに少々塩が……というより、味がない。
しかし湯気が出ているあたり、上で作ってきたのだろう。
と、言うことは。

「上は、もぬけの殻ですか…」

疑問と言うよりも断定に近い形でため息をついた。
どおりで、上からたまには聞こえてくるはずの振動がなくなったわけだ。

「開戦したからの…誰もいない。姫宮、おそらく日本は……」
「日本は、負けます。名を変えられ、ブリタニアに服属することとなりましょう」

きっぱりとした答えに、桐原公は瞑目した。
この少女の『予言』が外れることは、滅多にない。

「そうか………」

しばし沈黙が空間に降りる。
ふと、壁に掘られた穴に、灯りが灯った。周囲が一気に明るくなる。
誰がつけたという事もなく灯るそれらに驚くこともなく、二人はその灯りを見た。

「姫宮……いや、朱雀よ。上から何か持ってこよう。鎖を…」
「それは、不要です。お爺様」

無理をさせるわけには行かないし、何よりも、

「できるだけ多くの日本人を…救って下さいませ。服属させられ、国と大地を奪われたとて、決して魂の尊厳が奪われるわけではありません。どんな立場になろうと、あろうと。国を愛し、魂の尊厳を持っていれば、『日本』はそこに存在しています」

決して、命を軽々しいものとだけは、考えないでほしい。
これから来る『侵略者たる民』もまた、全てが悪というわけではない。

「理解する心を……努力を」

そして、

「サクヤを…いいえ、神楽耶を、よろしくお願いします」

優しい従姉妹が、心押しつぶされることのないように。

「お爺様。私は……私をここから解き放つのは、我が父が憎む…憎み、疎み、嫌っていた『略奪者』達です。お爺様も早くお戻りを。いまはまだぼんやりとしか、見えませんが…………その内、」



きっと、殺しに来てくれることでしょう。



最後の一言は声に出さずに呑み込んで、頭を下げた。
皺だらけの…厳しいけれど、その分とても優しい手が、頭を撫でる。

「何日分か、食料は持ってきておこう…神楽耶はキョウトに無事逃れたそうだ。これからわしも、動こう」



それがすべきことならば。



力強くそう告げた声に、微笑する。
頭を撫でていた手が頬を撫でて、久しぶりに感じる人の体温が、暖かさを運んでくれた。



世界は、人は、時折本当に優しい。



それ故に後に味わう絶望は、身を裂くように辛く、また甘美なのかもしれないけれど。



食料を運んで三日は大丈夫そうになると、桐原公は再び頭を撫でてきびすを返した。
しかし、そう進まないうちに立ち止まる。

「?」
「あのブリタニアの兄妹だが…逃れたそうだ。命は…今の所、確認されている限りだが、無事らしい。保護されたのかまでは未確認だが、ブリタニアの皇族だ。貴族でも軍でも、求めれば助かるだろう」

涙が、出た。少しだけ、生きたいという願いがわき出てくる。

「っ……はい。ありがとうございます………!」










食料を細々と食べて、五日。





ブリタニア軍が…『あの人』が来たのは、その更に三日後のことだった。


作品名:獄中の姫宮-00- 作家名:佐上 礫