日向と音無/not腐
この世界に生まれた。いや、事実としてはここにいるヤツらは全員死んでるんだが。この身体の仕組みは分からない。怪我をすりゃその怪我に応じた痛みが脊髄とか脳みそとかそこの部位を包むし、血もダラッダラ出るし、流し続ければ出血多量でお先真っ暗になるだろう。ああでも怪我とかそういう、この身体で感じる外界からの刺激は、まるでそれらを身体すべてでもって不可とさせるんだっけか。試しに指先にナイフでも突き立ててやろうか。そんな現場日向に見つかったらめんどうだからやらないけど。まあありえないことだがそのポジションが日向ではなく野田だったとしても、あの野郎のことだ絶対に喜々として、貴様などいっそそのまま1度死ね永遠に死ねとか鼻で笑うオプション付きでハルバードでやられておシャカ、だろうな冗談じゃない。だいたい俺は痛いのは嫌いなんだよ。
この世界に、こうして存在している俺たちは死んで生き返ったとはまた違うんだろうし、死後の世界というのは基本的に証明はなされていないわけだし、というか死んで尚動かせるこの肉体は俺のものなのだろうかとか、触れれば皮膚は皮膚のままだし、まあ死ぬ前のものと同じ感触であると言い切れないのは、欠落した記憶の責任ということにしておこう。
俺は死んだ。らしい。音無。下の名前は不明だ。知ってどうにかなるものでもないが、自分の名前さえ曖昧というのは少し寂しいものがあった。だからといって無理に思い出そうともしないのは、俺がここでたしかに安住を覚えているからだろうか。だってその寂しさは今となってしまえば過去だからだ。というか、生まれたその気持ちを明確に感情のそれと振り分ける前に、なにやら怒濤に流され呑まれてえんやーこーらーどっこいしょ。そうかあれは寂しかったのかと、理解したのはつまり最近だ。笑うところだな。俺はそんな自分に溜め息をかけてやる気すら起きなかったけど。
境遇どころか自分の名前すら分からないのに、周りはそれで特視することもせず、ただ俺のことを音無と呼ぶ。そういうなら俺だって、ゆりも野田も日向も大山も、まあTKはまた別だが、細かいことはなんにも知らない。みんながそう呼んでいるから呼んで、本人たちは不自由は感じていないだろうし、俺だって音無音無音無音無、呼ばれて違和感はないからつまりそういうことなんだろう。呼ばれる名前はたしかに自分のもので、周りにいるアイツらもたしかにアイツらで、身体の仕組みがどうであれ、俺という実感を持ち切れなくても俺は今ここに、音無っていうひとりの個人として生きているのだ。死んだけど。ああこう考えると訳分かんねえな、日向の馬鹿がうつったんだろうか。それは勘弁してほしいところだ。溜め息。
「あー、いたいた音無! おっまえ、屋上好きだなー。まあここ以外に行くとこねえっつーのもあるけどよ」
噂をすれば。いや口には出してないが、絶妙なタイミングで日向の登場だ。俺がなにを言っても関係なさそうに、ていうかひとりでべらべらべらべら喋りすぎなんじゃないのか日向。こわいぞ。
肩越しに振り返ると首に負担がかかりすぎてつりそうになったので、仕方なく身体も転換させる。ああくっそ運動不足だなあこの身体。見れば日向の手には、いつもいつも喉がお世話になっております缶コーヒーが握られている。わざわざ買って来てくれたのかと、内心ちょっと喜んだ俺に日向は二カッと馬鹿丸出しっておっと違う、晴れやかな笑顔を向けたかと思ったらそうして目の前でその缶コーヒーのプルタブを押し上げた。なにがしたいんだよお前は。隠すことすらせずに半眼とした俺のその視線を一身に浴びながら、その缶コーヒーを傾け喉仏が上下、するよりも先に日向の顔が歪んだ。
「ニガッ! んだこれニガイ! つーかマズイ! ニガマズイ! 甘くねえ!」
騒ぎながら、俺のほうに近付いてくる。いやだからお前は、なにがしたいんだよ本当に。馬鹿なのか。知ってたけど。
「コーヒーに甘さ求めてどうすんだよ」
「いやもうちょっと甘いモンだとばかり…あ、やるよ。俺これ飲めねえや」
「日向の飲みかけはちょっとな」
「なんだー? 間接チューとか気にしちゃうタイプなんだな音無? 俺のこと意識しまくりなんだな? いやー参ったなーそりゃあ」
「日向お前マジでコレなのか」
「違ぇよ!!」
なんだかんだ、受け取る缶コーヒーは重い。そりゃそうだ、日向は全然飲んでない。慣れた苦みを舌に転がしながら、こういうことかと気付く。この世界に来る前の、記憶を一切合切失くした俺は、しかしきっと幸せな記憶ではないのだろうし、そう考えると思い出すというそれ自体が少し、怖い。記憶のない俺はこの世界で生まれたのも同然だ。今コーヒーの苦さに舌を浸らせ、日向とだべって、満足に授業すら受けずに抗うのは、正解であるとも言えないが、でも、つまり。
普通の生活をすれば消されると言う。普通の学園生活。普通。あまりにも普通。親という概念がないこの世界でもテストの点数を気にして、少なくともおもしろくはない授業を受け、合間合間に挟まれる短い休憩時間に出来た友人と笑い合って、それが普通。これが普通。なら、今俺と日向がこうして屋上でするやりとりも、放課後の、ワンシーンということになるんじゃないだろうか。もしかしたら消えるんじゃないか。消されるんじゃないか。
感覚は人間のまま。通う血があり、吸う酸素があり、送り出す肺があり、考える脳があって、そこから動かせる己専用の器がある。けれど違うのは、消失だ。死ぬでもなく、ただ忽然と、死んでから生きるこの世界から、消される。ああなるほど。もう当たり前すぎて忘れていたがそうかここは安住すべき地ではないし、遅かれ早かれなにか原因によって消されて、そのスイッチが日々の生活のどこかに散りばめられているなら、今がいちばん。
「ッ!」
「? どうした?」
恐怖に駆られ足を見た。ちゃんと地面踏んづけてるだろうな。ちゃんと影と繋がってるだろうな。いきなりそうして動いた俺を、日向がなにも考えてませんってないかにもな馬鹿面で見てきた。お前は呑気だな。怖くないのかよ、消えるのが。消されるのが。
でもそうして、いつかは来る終わりに怯えるほど、いつの間にかこの世界で生きている俺は、楽しんでいる。認めたら消されそうだから、認めないし言わないしすぐに忘れてやるけど。ここで生まれ、こうして笑えている。手に持つ缶コーヒーの苦さを知っている。この、世界で。
作品名:日向と音無/not腐 作家名:o2pn