無題
列車に乗り込み汚れたシートを軽く手ではらい席に着く。
手にした封を開き書類を確認しているうちに窓の外の景色はながれ、
鼠色の雲の下に起伏の少ない草原と丘と湖の大地が広がった。
所々に黒い石が転がる砂利道が細々とどこかへつづく。
朝から飲んだくれていなければいいのだけれど。
彼が家に居なければ行きつけのパブまで探しに行くことを考えながら、
家に居たらいたで気難しい彼の機嫌を考えてイギリスは憂鬱になる。
いつか彼が微笑んで自分を迎え入れてくれるだなんてキャンディーみたいに
甘い考えは、とっくの昔に紅茶に溶かして飲み込んでしまった。
駅に着くと雨がぱらつきだしていた。折り畳み傘を開いて家までの道を歩く。
チャイムを鳴らして待つけれど返事がなくて、これはパブかと溜息をついて
違和感に気付いた。
リビングにランプが灯っている。
ドアノブを掴めば鍵はかかっていなかった。
「兄さん?」
ドアマットで靴の裏を擦り中に入り声をかける。
「兄さんいるのか?」
返事の無いままにリビングに入り
「兄さん!?」
イギリスは驚いて声をあげた。
ランプの灯ったリビングの床、絨毯の上に彼は倒れていた。
駆け寄って顔を覗き込めば彼の顔面は蒼白で、苦しそうな細い息が漏れている。
ランプの下に吸引機を見つけてそれを掴み、上半身を支えて起こして口に当てた。
暫くの静寂。
燃えるような赤毛の下で白さが際立つ喉を押さえ、スコットランドは静かに
息を始めた。
よかった。
肩から落ちたストールをかけ直してやり、ソファーに寝かせようとした
イギリスの手を払い退け
「…紅茶を」
彼は擦れた声で呟いた。
アールグレイは香りが強い。
ダージリンの茶葉をティーポットに入れお湯を沸かし盆に載せて持っていくと
彼はソファーに座り背もたれに寄りかかり書類をめくっていた。
サイドテーブルにポットとカップを置き紅茶を注ぐと黙って手を伸ばし紅茶を
口につけた。
「…もう大丈夫か?」
恐るおそる声をかければ彼はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「お前のせいだろうが」
「え」
思考が一時停止をする。
「お前が俺にこの仕事を与えた、薄汚れながら喉を痛めながら俺達は
仕事を続けた、違うか」
この場合の俺達、にイギリスは含まれない。
彼が言うのは彼の中に住むスコットランド人のことだ。
「なのにいらなくなったら職場は閉鎖、保障はなし、俺達に残ったのは
汚れた肺だけだ」
雷鳴が遠く響く。
大地を震わせながら近付くその音は兄が駆りたてる馬の蹄の音に似ていた。
憎きイングランドを追い立てるかのように黒馬が嘶く。
書類を閉じてペンを軽くはしらせてサインをし、スコットランドは目の前に
立ち尽くすイギリスを見上げる。
「お前はそんな昔のこと、と思うかもしれないが、俺の喉が病み続けている
その意味が分からないお前じゃないだろう、イングランド?」
俺は。
口を開いたけれど震えた声は落雷に打ち消され彼には届かなかった。
自分のそれと同じ色の筈の緑の瞳を静かに燃やし彼は呟く。
「結局お前は俺の民を自分の国民だなんて思ってもいないんだ、イギリス」
書類に不備があるから訂正していけ。
彼はそう言うと返事を待たずに寝室に行ってしまった。
しばらくソファーに残されたストールを前にぼんやりと立ち尽くして、それから
彼が残していった紅茶をカップに注いで飲み干した。
カップとポットをキッチンのシンクで洗い、ダイニングテーブルに書類を広げ
彼の書き込みに従って書類を訂正してゆきノートパソコンを開いて新しい書類
を作り直す。
外は激しい雨だ、どうせすぐには帰れない、列車だって遅れているに違いない。
お前のせい。
いくら自分が決めたことではないんだと言ったところで、彼には言い訳にしか
聞こえないのだと知っていた。
書類を作り直しパソコンのプリンターを借りるために立ち上がる。
確か書斎は2階にあった筈だ。
普段は登らない階段で2階へ行き寝室のドアをノックしようとして
「………」
壁に掛けられたフレームに収まった写真に目がいった。
職場の仲間達だったのだろう、古ぼけた大きい写真にはすす汚れた作業着姿の
男達が、ある者は微笑んで、ある者は気難しそうに並んで写っていた。
色あせた写真の中に一際赤い髪の青年を見つける。
見慣れた彼の顔は今とちっとも変わらない。
そしてその顔は。あんなにも見たかった筈の。
「………?」
ベッドの上で目を覚ませば窓の外は少し明るくなっていた。
目覚まし時計を掴み時間を確認し昼前だと知る。
雨雲は泣き終えて今は空を絶えず流れていた。
階段を下りリビングを覗けば彼はソファーに座り眠っていた。
自分の置き忘れていったストールを抱きしめ俯き眠る彼の目許が赤い。
テーブルの上には新しく作り直された書類の束が置かれていた。
きっとプリントアウトするために2階の書斎に上がったのだろう、
だとしたら写真を目にした筈だ。
あそこにはイングランドに対する自分とは違う自分が写っている。
こんなにも拒絶されて諦めはついている筈なのに
「だからお前は馬鹿なんだ」
ライターで煙草に火を点ける乾いた音が部屋に響いた。