泣き虫の声
ずず、と鼻を啜る音が聞こえる。続いて漏れる僅かな呻き声に、静雄はゆるく溜息をついた。胡坐をかいた背の後ろに寄り掛かるようにして、臨也は小さく膝を抱えている。電気も点けずにいる部屋は暗く、夕闇も落ちかかった濃い赤紫の光が、僅かに開いたカーテンの隙間から流れ込んだ。温度は冷え切っているというのに、背中越しに感じる体温はまるで幼子のようにひどく熱い。ひっく、と臨也が肩を揺らす度に静雄の肩も上下し、その不快感に眉を顰めた。
「・・・おい」
「・・・っく、う、え・・・ひっ、く」
「おい、いつまで泣いてやがる」
痺れを切らした静雄が苛立ち混じりにそう問い掛けても、まともな言葉は返ってこない。いつも煩いまでに饒舌なその口は、どうやら本来の仕事を忘れてしまったらしい。こいつが黙るとこんなに静かなのか、と静雄は居心地の悪さに身じろぎをした。ずる、と細い体が背中から滑り落ちる。一層静雄に寄り掛かる体制になった臨也は、それすら気にもしないように未だぐずぐずと泣き続けていた。
正直苦手だ、と思う。いつものいっそ清々しいほどまでに良く回る口も、今日みたいに頑なに何も喋らない口も、折原臨也という存在そのものが。静雄は煙草でも吸おうかとポケットに手を伸ばし掛け、その手を戻す。煙たい空気が今の状況を軽くしてくれるとは到底思えなかった。こいつが家にやって来た時点で押し返すべきだったと悔やんだが、今更どうにもならない。静雄は数時間前を思い浮かべ、何度目かもしれない溜息をついた。もし今もう一度やり直せたとしても、あの顔を見た自分は、何度でもこいつを部屋に入れてしまうのだろう、と。
「・・・何があったってんだよ」
最早返答は期待せず、静雄は途方に暮れぽつりと言葉を漏らす。何で俺なんだ。こいつに友人と呼べる人間が少ない、いや皆無に等しいのは知っていたが、少なくとも俺じゃなくもっと適任な奴がいただろう。馴染みの医者とか、それから、ええと、馴染みの医者とか。大嫌いな俺のところに来るくらいなら、こいつは道端を歩く通行人にすら嬉々として話し掛ける、静雄の知る折原臨也とはそういう人間だった。
「・・・いざや」
極力怒りを抑え、ゆっくりと名前を呼べば、ひく、と喉を鳴らす音が聞こえ、数秒の沈黙が続いた。静雄は一生分の気遣いを振り絞り、更に言葉を続ける。いざや、どうした、と。
「・・・かなしいんだ」
籠った声は聞き取りづらく、いつもの鮮明で良く通る声は面影もない。ずずず、と鼻を啜る音がやけに痛々しく、静雄は傍に転がっていたティッシュボックスを後ろへ投げた。ありがと、と小さな声が聞こえ、たどたどしく数枚引き抜く音が静雄の鼓膜を揺らす。ちーんと鼻をかむ、その音に反応しすかさずごみ箱を手渡したところで、静雄ははた、と我に返りどうしようもなく泣きたくなった。何だってこいつに優しくしているんだ、俺は。こんな奴今すぐ首根っこを引っ掴んで追い出してやればいいのに。
「かなしいって、何がだ」
「・・・自分に」
こいつの言っていることは分からない、と静雄は苛々した。それでも無理矢理に追い出せない、いや追い出す気のない自分にもっと苛々する。いつも無遠慮に静雄の中を踏みにじるその足が、今は心細そうに白くて長い腕に抱えられていた。臨也の弱った姿など見たこともなかった静雄は、頬杖をつきながらただひたすらに言葉を待つ。それ以外にこの状況から抜け出せる術は思いつかなかった。
「・・・俺は今まで、誰かを愛してはきたけれど、愛されたいと願ったことはなかった。それは自分に愛される資格がないと分かっていたからだ」
床をそろり、と流れる声が、静かに狭い部屋を満たしてゆく。このままこいつの声に溺れてしまえたらどんなに良いだろう、と静雄は目を閉じる。折原臨也の何もかもが嫌いだった、ただこいつの声だけは、さほど嫌いじゃあない。
「でもね、気付いたんだ。そこが終わりだった。俺は愛されやしない。どう頑張っても、愛されやしないんだ」
「ふうん・・・人間に愛されないのがそんなにかなしいか」
「・・・違うよ、違うんだけれど、君は一生分からないんだろうね」
臨也が笑う気配がした。ひっそりと口角を上げ、声も上げずに笑うその顔は、見ずとも分かってしまう。愛されたい、静雄も少なからず願ったことはあった。願うだけなら自由だった。それでも、と静雄は思う。自分はこんな風に泣いたりしない。こんな、まるでたった一人を求めるような、切ない声はしない、と。
「さびしいな」
「・・・うん、そうだね」
「臨也、」
「なあに」
「もっと喋れ」
え、と初めて臨也が静雄へ振り返る。涙で真っ赤に充血した瞳が、驚いたように静雄を見つめた。静雄は真っ直ぐに目の前の壁を睨んだまま、喋れ、と繰り返す。
「なに、急に。いつもは黙れって言うのに」
「いいから喋れよ。てめえが黙ってると気持ちわりい」
「あっひどいなあ」
くすくすと臨也の笑う声が冷たい床に積み重なる。その瞳から静かに流れる涙も、聞き取りづらい声も、静雄は全部気付いていた、そして臨也も、また。けれど互いに気付かないフリをすることで、どうかまた日常が戻れば良いと願う。臨也の声が部屋を満たしてゆくのを感じながら、静雄はこのままお前の声に溺れてしまいたい、と思った。そうしてこの胸を刺す痛みも、触れ合う背中の体温も、全て忘れてしまえればどんなに幸せだっただろうか。表面だけの楽しそうな声が空っぽの部屋を満たし、静雄は静かに酸素を手放した。
ご注意下さいご注意下さい。ここから先は洪水です。濁流の行き着く先は分かりません
どうかどうか、その手を繋いでしまう前に、お逃げなさい。
おしまい