蜜月―杏里編―
杏里はアイスティーに口を付けながら、窓の外を見た。二階の店舗なので、賑わう通りの様子が良く見える。こうして窓ガラスを隔ててみると、表の喧騒が別の世界の出来事のようだ。さっきまでそこにいたのだと思うと、不思議な感覚に囚われる。
ふと、窓から店内に視線を戻すと、帝人と正臣がじっと杏里を見ていた。杏里は驚いて数度瞬く。
「あの、どうかしましたか?」
杏里の発言を聞いた途端、二人は力が抜けたようにテーブルに突っ伏した。きちんと食べ物を避けているので、ポーズであることは分かったが、杏里は困惑した。
「どうかした、はこっちの台詞! 物憂げな顔で窓の外見てるからさ。どしたのかなーと思って」
正臣が低い姿勢から杏里を見上げた。帝人は既に体を起こし、心配気に杏里に問いかける。
「さっきもぼうっとしてたよね? 人酔いしちゃった? 熱中症?」
ようやく二人の言いたいことが分かって、杏里は慌てて釈明した。
「あの、違うんです。少し考え事をしてただけなので、大丈夫です」
「ほんとかー?」
正臣が杏里を覗き込みながら言った。杏里は微かに俯く。
「まぁ、顔色は良さそうだな。なんかあったらすぐに言うんだぞ」
「本当に大丈夫です。ただ……」
帝人と正臣が杏里を見る。杏里は、自分の不注意で心配をかけてしまったことを申し訳ないと思いながら、少し嬉しいとも感じていた。躊躇いがちに、切った言葉を繋げる。
「ただ、なんだか浮かれてしまって、意識がふわふわするんです」
帝人と正臣は、杏里の発言を聞いて目を合わせると、どちらからともなく笑い出した。杏里は何を笑われているのか分からず、戸惑うばかりだ。帝人が笑い混じりの声で、杏里に説明した。
「ごめんね。ふわふわするっていうのが、なんか園原さんらしくて、」
そこまで言って、帝人が慌てて付け加える。
「あ、馬鹿にしてるわけじゃないよ! そんなんじゃないから!」
そう言いながら必死で手を振る帝人がおかしくて、杏里も笑った。
昼食を終えて、真っ直ぐ映画館へ行った。上映まで待ち時間があったが、三人でゲームセンターで遊んでいたらあっという間だった。入場時間の直前に映画館へ戻る。
正臣が食べたいと言うので、ポップコーンも購入した。塩味とキャラメル味が半分ずつ入った、一番大きいサイズだ。上映を待ちながら、杏里が膝に抱えたポップコーンに、二人が左右から手を伸ばす。杏里も時折ポップコーンを口に運んだ。三人で食べると、大量のポップコーンが目に見えて減っていく。それが杏里には面白く、面映かった。
ポップコーンの残りが半分を切った頃、ようやく上映が始まった。真っ暗になった上映室に、自然と期待感が高まる。自宅のテレビで見るのとは違う、臨場感のある音響に圧倒されながら、杏里は映画の世界に没頭した。
映画が終わり、退場する人に流されて、三人も上映室を出た。帝人と正臣は一言も喋らない。杏里も二人に倣って、無言で空になったポップコーンの容器を捨てた。
映画の系統はミステリーとサスペンスで、最後にストーリーが繋がっていくのが快く、十分満足できる一本だった。ただし、三人が押し黙っているのは感動して言葉が出ないわけではない。映画の後半、予期せず女性が全裸になるシーンがあったのだ。PG−12表記があったので、多少過激なシーンがあるのだろうと思っていたが、その方向性だとはまるで考えていなかった。杏里一人で見る分には気にならないが、異性の友人と見てしまうと、気まずいことこの上ない。どう打開すべきか考えあぐねたまま、三人は映画館を後にした。
しかし、この気まずい空気を打開したのは、正臣でも帝人でも、ましてや杏里でもなかった。ふらふらと映画館から出た三人は、それぞれに第一声をどうするか考えていたので、周囲の状況に気付かなかった。まだ日も高いのに、明らかに人通りが減っていることに。
杏里がそれに気付いたのは、耳を劈く轟音と共に、背後から水飛沫に襲われたからだ。冷たい感触と音に驚いて振り向く。そこにあったのは、大破した消火栓と、倒れた自動販売機だった。消火栓の残骸から勢い良く水が噴き出し、今も杏里の服を濡らしている。あまりにもおかしな、しかし心当たりのある光景に、杏里はようやく事態を飲み込んだ。杏里同様、帝人も消火栓を見て呆然としている。
「逃げるぞ!」
唯一別の方向を見ていた正臣が、帝人と杏里に声をかけた。二人ははっとして駆け出す正臣に続く。杏里が振り返って正臣の見ていた方向を見ると、予想通りのバーテン服が見えた。誰かと揉めているようで、手に握ったカーブミラーが光を反射している。
「あ、虹」
帝人が緊張感の無い声を上げる。杏里が消火栓の方を見ると、噴き出す水しぶきの端に、小さな虹が架かっていた。杏里は眩しくて、僅かに目を細める。
「いたっ!」
帝人の声で前に向き直ると、帝人が片手で頭を押さえていた。正臣が帝人の頭をはたいたようだ。杏里はこんな状況にも関わらず、表通りを駆けながら、少し笑った。
走れるだけ走って表通りを離れ、ようやく三人は足を止めた。上がった息を整える。三人とも所々洋服を濡らし、すっかりくたびれた様相だ。そんなお互いを見て、緊張から解き放たれた三人はひとしきり笑いあった。
「あーびっくりした。静雄マジ怖えー」
正臣がおどけて言う。
「すごいニアミスだったね。なんか一生分の運を使い果たした気分」
帝人が苦笑しながら言った。
杏里は二人の格好を見て思案した。真夏とは言え、濡れたままにしていたら風邪をひいてしまうかもしれない。
――――――家に呼ぼうかな。
ここからなら、杏里の家が一番近い。杏里は考えた。以前料理を作ってくれると言っていた正臣に、夕飯を頼んだら引き受けてくれるだろうか。自分の家で、三人で食卓を囲むのは、夢のように幸せな想像だった。
――――――うちに来ませんか。
杏里は心の中で唱える。
「園原さん、どうしたの?」
黙っていた杏里に、帝人が声をかけた。正臣も杏里を見ていた。今までに何度も見た光景で、何度も繰り返したやりとりだった。
「……何でもないです」
杏里は笑ってそれだけを答えた。たくさん考えていた言い訳は、あっさり霧散した。あんまり二人のことが好きだったので、言えなかった。杏里は十分幸せだった。
耳を澄ますと、罪歌の不満そうな声が聞こえた気がした。