漆黒と涙
その男は、飄々として、時に子供染みた感情のままに行動するくせに、己の保身を決して忘れない。男の本質を白か黒かと問えば、グレーなどと中途半端な色を答える者は何処にもおらず、誰にでも真っ黒だと言わしめるような人間だった。
そんな男が、今は一人雨に打ちひしがれている。
「……、最低。俺、またやっちゃったんだ」
絞り出すような声には、常日頃の策略も何も含まれていないように聞こえた。少なくとも、この場で彼の言葉を聞く者が居たならば、そう思ったとしても何らおかしくはなかっただろう。
しかし真っ黒な男は、それすらもどうでもいいのだろう。
ただただ弱い声でもう一度、最低だ。と繰り返す。
唇を噛みしめる様は、男が有する人並み外れた端麗な容姿によく似合った。儚げで、まるでこの世の者ではないような色香さえ醸し出している。
「………シズちゃん」
そんな男が、焦がれるように。同時に引き裂かれるような悲痛さを持って呼ぶ声は、後にも先にも一つしかないだろう。
男の目の前で、万人の心を揺するような容姿と仕草にも欠片も動じず
ゆっくりと煙草をくゆらす金髪の男。その名前を、真っ黒な男は何度も呟く。
「うるせぇ」
にべもない返答だったが、それでも言葉が返って来た事に黒い男は心から安堵するように細い息を吐き出した。良かった。と小さく告げた言葉は、やはり聞き入れられないように無視をされたが、それくらいで傷つくような繊細な心を、容姿ばかり美しい男は持っては居なかった。闇夜に向けて紫煙を吐き出す男はそれを知っていたが、もしも知らなかったとしても、彼の態度が変わることはなかっただろう。彼は、それくらい怒っていたのだから。
「…俺が何で怒ってるか分かるか?臨也くんよぉ」
怒気に満ちた声は、地を震わせるかの様に低く、それでいて男の――臨也の耳には、心地よく響く。臨也は、この怒りがよく似合う男の事が世界で一番大嫌いで、そして同じくらい愛していた。
矛盾ばかり抱える臨也にとって、その事実は別段彼を悩ませる事はなかったが、時折こうして自棄のような行動をとってしまう事があった。
「――俺が、手首を切ったから?」
臨也が淡々と答えると、フィルターを噛みきった煙草を地面に吐き捨てながら、金髪の男は大きく息を吐いた。
それは、先程の臨也のものとは比べものにならない位の辟易と、心配という感情を含んでいる。
臨也は、この怒りがよく似合う男と付き合っていた。もう半年にもなるだろうか。
世間一般で言う"恋人同士"と、なんら差し支えのない関係だ。一般的に恋人と呼ばれる者達と敢えて違いを述べるならば、性別が同じ、男同士という事くらいだ。男同士でも、愛と欲を満たすセックスは出来たし、いまさら戸惑う程生温い想いなど二人は揃って持ち合わせてはいなかった。
愛し合う為の言葉を、臨也は人よりも多く持っていたし、愛しいと思う感情ですらこの目前の男を対象と限定するならば、他の誰よりも持っている自信すらあった。
ただ、臨也は人よりも好奇心が強かった。
普通の人間ならば、理性が邪魔する所を、臨也の場合はむしろ理性が後押しするのだ。精神を病んでいるわけではない。どこまでも健常な好奇心が、幸せであればある程、彼に問いかける。
"この男が自分を捨てないか、知りたくないか"と。
臨也がこの声に打ち勝てた事は、残念ながら一度もなかった。
幸せで、幸せで仕方がない時程、声は臨也の心で響くのだ。
一番はじめは、静雄と付き合う事になった時
二回目は、静雄と初めてセックスをした翌朝に
そして今回は、
ずっと一緒に居ようと。以前の臨也ならば鼻で笑ったような台詞を聞いて、思わず涙してしまったその後すぐに。
臨也は、現実を確かめるように手首を切る。
「……馬鹿か、手前は」
抱きしめてくる腕は、怖い程に暖かい。
以前までは好まなかった苦みの強い香りも、今はただ心地が良い。
「うん…そうみたい」
その広い胸に顔をすり付けながら、臨也は疲れきったように笑って見せた。
「―――すきなんだ」
「……知ってるよ」
「だいすきなんだよ、シズちゃん……」
「知ってる」
だから俺を捨てないで。
臨也がそう言う前に、静雄は腕の中の臆病な恋人に口付けた。
「捨てねぇよ、馬鹿」
もう何度聞いたか分からない台詞だった。
けれど臨也は、この言葉を聞くと心から安堵する事が出来た。
きっと、この言葉を聞きたいが為に自分はまた彼を悲しませるのだろう。
そう考えると同時に、臨也の頬を涙が伝う。
丁寧にそれを拭ってくれる掌を何よりも愛しく思いながら。
涙の理由が、誰よりも愛しい男を悲しませた。そんな優しい物だったら良かったのに。
臨也は真っ黒な自分を憐れむように
ただ、涙をこぼし続けた。
end