夜は太陽を知った
もう歩けない。足が言うことを聞かない。俺はばたりと力なくその場に倒れこんだ。
左腕からは容赦なく血が流れ続けている。事態は最悪な方向へと進んでいる。
首からぶら下げている懐中時計を開く。時間がない。もうすぐ夜明けだというのに。
何処でもいい、廃屋なんて望まない、洞窟とかほら穴でいいんだ。
俺がすっぽり隠れる場所が欲しい。このままじゃだめなんだ。
なのに空腹のせいで指の一本も動かない。あぁ、もうおしまいなのかな。そう思った。
コチコチ、と時計の針がなっている。これは死へのカウントダウンという奴だ。
太陽なんて無くなればいいのに。どうしてあれは上ってくるのだ。
そんなに俺たちが憎いのか。畜生畜生、こんな、こんなところでどうして死ななきゃならないんだ!
地面にくっついていた耳が足音を聞いた。その瞬間、かっと目が開いた。
最後のチャンスだ。この足音が人間だったのなら。俺は生きられる。
ぐっと拳を強く握った。そして震える足を叱咤して何とか立ち上がる。
かすんできた目が捕らえたのは、一人の人間。どくん、と心臓が強くなる。
「・・・なんやお前。そんな物騒なもん持って」
「黙れ。死にたくなければ動くな」
ナイフを握っている手が震える。今にもそれを手放してしまいたいと悲鳴を上げていた。
聞こえてきた声は男。出来ればか弱い女のほうが楽だったが仕方がない。
荒い息を零しながら、やっとのことで言葉を紡いだ。
「金の懐中時計に緑の目、この国には珍しい白い肌と来たら」
男がつらつらと語る。まるで何処かで聞いてきたことをそのまま言うように。
目の前に居る俺の特徴を語っていた。
そんなに派手に動いたつもりはなかったが。ここまで詳細に知れ渡っているとは。
必死に目を凝らして男の顔を見ようとしたがほとんど見えてこなかった。
「お前、最近ここらで騒がれてる吸血鬼やな?」
時計の音が耳から離れない。もう時間がない。ないんだ。
ぱたぱたと左腕から流れる血がどんどん冷たくなっていく。
「だったらどうする・・・?」
最後の虚勢を見せるために笑ってはみたがうまく笑えなかった。
もはや口の端をあげる事さえもままならない。立っていられるのが奇跡だ。
「とりあえずこうする」
とん、とまるで子どもを叱るように俺の手首を叩く。
男の声が聞こえた時には既にもう俺のすぐそばまで来ていた。
最後の最後で、俺は運に見放された。こいつはただの人間ではない。訓練された人間なのだ。
ナイフが地面に落ち、それを男はすぐさま己の足で踏みつける。
褐色の肌がナイフを握っていた俺の手首を掴む。
時計の針が、止まった。
「うわ、ほっそい腕やな!ちゃんと食ってんのか?」
「食ってないから・・・・細いんだろうが・・・」
がくりと膝から倒れこむ。手を掴まれているから腕だけは上がったまま。
もう何もできない。目の前に居る男のふいをついて噛みつけるほど、この男は弱くない。
希望が見えたと思ったらただの絶望じゃないか。あのまま太陽にさらされて死んだほうがマシだった。
耳もよく聞こえなくなってきた。男の声が嫌に遠くに聞こえる。もう終りなんだな、本当に。
この男はきっと吸血鬼殺しの英雄として語り継がれるのだろう。良かったなコノヤロー。
「じいちゃん・・・フェリシアーノ・・・・・・」
最後に懐かしい人たちを思い出したかったから、呼んでみた。
すると涙なんか流れてきた。死に際でも涙って出るんだな、なんて妙に冷静に思った。
もっともっと、したいことあったのにな、これだけ長生きしたけど、もっともっと。
早く仲直りしておけばよかった。大事な弟と。
後悔を残しながら、静かに消えていこう、そう思いながらお迎えとやらを待つ。
だけど突然、時計の針が動き出した。
耳も目もほとんど使い物にならなかったのに、嗅覚と本能だけは辛うじて生きていたらしい。
ぼやけた視界で見えたのは、ナイフの刃を握りしめている男の手から流れる、赤。
見えた時には既に、俺はそれに食らいついていた。
「何で助けた」
もうすぐ日が昇る。俺は時計が示す時刻を見ながら思った。
干し草がたっぷり乗った牛車を走らせている男に向かって俺は声をかけた。
聞こえないかもしれない、俺は今、日の光が届かないくらい干し草の中に突っ込まれているのだから。
でも、男の笑い声が聞こえたのでどうやら彼には届いたようだ。
「お前があまりにも必死やったから、何となく」
かなりの量の血を飲んだはずだ。俺は半分気を失った状態で飲んでいたのだから、加減などしていない。
だけどけろりと何事もなかったかのように男は話している。何者だこいつ。
色々と怪しげなことは多かったが、考えるのが面倒だった。まだ体も本調子ではない。
数分もすると牛車がぴたりと止まる、どうやら目的地に着いたらしい。
「一応牛小屋着いたんやけど、出てきても大丈夫なんか?お日様のぼっとるで?」
心配そうな男の声がする。干し草の隙間から見える日の光がだいぶ減っている。
本当に建物の中に入ったのだろうということがわかった。
建物の中に入れば死ぬことはない。あまり体にはよくないが。
大丈夫だ、と一声かけてから干し草をかき分ける。
本当はまだ疑っている。俺を生かして捕らえるつもりなのかもしれないと思ったからだ。
もしかしたら賞金が懸っているかもしれないし、今だって干し草から出てきたら太陽が待っているかもしれない。
だから俺は隠していたもう一本のナイフを握りしめたままだった。
人間なんてそんな簡単に信用してはいけない。姿かたちは似ていても違う種類の生き物なのだから。
「あぁ、やっぱりや!」
俺は僅かに瞳を光らせながら干し草を分けていた。
だけど、草の海を越えた時に見えた顔は警戒心の欠片もなくて。
「お前の目ぇ、綺麗な色やなぁ」
焼けた肌の色、眩しい緑の瞳、きらきらの笑顔。俺に手を差し出しながらそう言った。
きっと太陽のような人とは、こういう奴の事を言うのだろう。
太陽なんて俺たち吸血鬼にとっては忌み嫌う恐ろしいものでしかなかったけれど。
眩しくて輝いていて、こんなにも落ち着く気持ちにしてくれるのかと、俺は初めて知った。
握っていたナイフを干し草の海に落とし、何もなくなった掌で俺はその男の手を取っていた。
カチコチ、カチコチ、明るいリズムで時計が回り始める。
これが俺とアントーニョの出会いだった。