爪あとすら残せない
……という訳じゃないけれど、心情的にはやはり『知らない天井』だった。この部屋で一夜を明かしたことは幾度もあるけれど、そういった意味で、『朝を迎えた』のは初めてのことだたったから。
「……っ、…いた」
身動ぎをすると、体中がきしきしと痛んだ。それでもごろりと転がって身体の向きを変える。傍らにいたはずの人の姿はなく。伸ばした手のひらで触れたシーツに温かさは残っていない。
「あ、れ?」
伸ばした指先に違和感を感じて、両手を目前に引き寄せてみる。
見れば右手の指先は血に塗れており、左手も右ほどではないにせよ似たような状況だった。爪が剥がれていないことは幸いだったが。
どうしてこんなことになったのかなど、考えるまでもない。普通に考えればありえないことだけれど。彼は刃物すら数センチしか刺さらず、メスを何本も駄目にするような身体の持ち主だ。帝人の指先ごときが傷をつけるなど、叶うわけもないこと。
血は止まっているらしいけれども、傷がなくなったわけではない。目に付くまでは何でもなかったのに、気がついてしまうとじくじくとした痛みを感じた。
「………っ、」
途端、じわりと目に涙が浮かんだ。指先の痛みから生じたはずの雫であったが、それは何故か―――いや、必然的にか―――心に酷く沁みた。
放っておかれた
さびしい
どうして、あなたは今隣にいないのか
何か用事があったのだろう。急に仕事が入ったのかもしれない。
今生の別れでもあるまいに、目が覚めたときに傍に姿がなかっただけでなんて我儘で大げさな。
理性ではそう思うのに、感情がついていかない。ぼろぼろと瞳から落ちる雫が平常心を瓦解させる。すん、と鼻をすすって痛む指先を避け手のひらで両目を擦る。零れそうになる嗚咽を飲み込んだそのとき。
がたん、と背後から響いた音に再び身体をころりと転がす。と、玄関先で靴を脱ぎかけた姿勢のまま固まっている、この部屋のあるじの姿があった。
三和土の上にドラッグストアの黄色い袋。先ほどの音はこれを取り落とした音だったのだろう。怪我をすることなどない彼の家に傷薬や絆創膏などがある筈もなく。治療のための品物を買いに行ってくれていたのだと分かって、先ほどまでの自分の理不尽な思考をますます申し訳なく思う。
帝人が名を呼ばうよりはやく、蹴り飛ばすように靴を脱いだかの人が大股で歩みを進める。あっという間に寝台の傍らにたどり着いた彼は、長い脚を折って横たわったままの帝人に顔を近づけた。
色のついたレンズの下の瞳がひどくあせった色を浮かべていることに、帝人はそこで漸く気がついた。
「ど、どこか痛むのか? 指か? それとも―――」
「!わぁぁぁストップ、静雄さんっ!ち、ちがうんです!!」
何だかとんでもない箇所を告げられそうだったので、慌てて言葉を遮る。指先も身体も痛まないわけではないけれど、涙の理由はそれではない。だからといって心情を説明するのも抵抗がある。自らの身勝手さを露呈することになるのだから。
目が覚めたときに、あなたがいなかったから淋しかったんです
爪あとの一つすら残せないのかと思ったら、切なくなったんです
それは理不尽でも身勝手でもなんでもなく。もし告げたとしたら年上の恋人を大いに照れさせ喜ばせたのだろうということを、少年は知らない。