家族ごっこ【上】
#6
ある朝、ゴミ出しに行った時の事である。
「うわぁ!?」
ゴミ袋を集積所に置いた途端、背後から何かが脚に飛び付いてきた。びっくりして足下を見ると、犬だった。坂上を気に入ったのか、激しく尻尾を振って見上げてくる。
「こらポヘ、いきなり余所の人に飛び掛かるんじゃない」
そこへ、呆れたような声がかかった。見ると、ボーダーのポロシャツにクリーム色のスラックスというカジュアルな出で立ちの若い男がゴミを出す所だった。望と同じ年頃だろう。芸能人かと思うような整った顔立ちに、眼鏡の下の眼差しは優しく、どことなく清潔感のある人物だ。
「悪いな、うちのポヘ、割と見境なく人に懐くもんだから」
「いえ、犬は好きですから。可愛いですね。この子、ポヘっていうんですか」
「ああ、変わった名前だろ?……ところでお前は?見ない顔だけど」
「あ…最近越してきた坂上修一です。といっても、荒井さんのお屋敷に居候させてもらってるだけですけど」
敷地の広い荒井家はお屋敷ばかりが連なる閑静な住宅街にあり、ご近所事情がよくわからない坂上はまだ挨拶回りをしていなかった。
「ああ、荒井さんちか。俺は、左隣に住んでる日野貞夫だ。よろしくな坂上」
「はい。よろしくお願いします、日野さん」
家族が出払っている間ひとりきりで家事をしていた坂上は、近所に知り合いができた事を喜んだ。
日野とはそれから頻繁に顔を合わせ、路上で話し込んだり、時間の空いた時には家に呼ばれてお茶を飲んだりする間柄になった。日野は五人家族の長男で、父親・継母・弟・妹と暮らしていた。会社勤めではなく、いくつかの雑誌や新聞で連載を持っている作家で、取材に出掛けるとき以外は大抵家にいて原稿を書いているのだという。しかし、坂上がいくら聞いてもペンネームは教えてもらえなかった。
入梅の頃、坂上は平日の昼下がりに斉藤に呼び出されて、喫茶店で落ち合うことになった。なんでも、大学のサークルでイベントの企画を任されたので、その事でいろいろと相談したかったのだという。彼の悩みや愚痴を聞いた後、坂上も荒井家での生活について話すと、斉藤は微妙な顔をした。
「何だよ」
「いや……気を悪くしたらごめんな。けど、なんかお前の旦那の家族、おかしくないか?あまりにもできすぎっていうか……絵に描いたような幸せ家族で、嘘っぽい。ホントの家族じゃないみたいでさ」
「そんなこと……仲がよくて、すごくいいと思うけど?」
「うん。坂上がしあわせなら、俺はそれでいいけどな」
それでも何か引っ掛かるのだと言って、斉藤は言葉を濁した。
翌日はジムが休みだという誠と、講義が休講になったという友晴が家にいた。友晴はいつものようにトイレにこもり、誠は庭に出て運動を始めた。坂上は芝生の草刈りをしようと同じく庭にいた。敷地を囲う塀の側には、椿が植わっていた。シャドウボクシングをしている誠を横目に、坂上は椿の近くの雑草に手をかけた。すると、何処から入ってきたのか、日野の飼い犬ポヘが叢から現れて、椿のまわりをうろうろし始めた。
「チッ。どっから入ってきやがったんだ、この犬公が」
それに気付いた誠は少し焦ったように駆け寄って来て、ポヘの首根っこを乱暴に掴むと、門から放り出した。呆気にとられて見ているしかなかった坂上の耳に、キャインとせつなげに鳴くポヘの声が届いた。
「誠さん、ちょっと扱いが乱暴ですよ。あれじゃポヘが可哀相です」
「ん?……ああ、悪い。けど、家に糞でもされたら困るだろ?つい、な」
誠は弁解したが、それほど悪いとは思っていない様子だった。動物にはあまり優しくない人なのかと、坂上は少しがっかりした。
それから数日して、スーパーでばったり日野に会った坂上は、彼から衝撃の事実を知らされた。
「そういえば、坂上は綾小路って知ってるか?確か、荒井望の友人だったと思ったけど」
「あ、はい。僕達の仲人……いえ、望さんに紹介されてお会いしたことがありますから。その、綾小路さんが何か?」
「……記憶違いじゃなかったんだな。実はあいつ、俺の知り合いでもあったんだが、亡くなったんだ。三日前に交通事故でな。けど通夜にお宅の望の姿がなかったもんだから、驚いた」
「そんな……全然知りませんでした」
望は、知らなかったのだろうか。友人なのに?交通事故という単語に過去が思い出されて青ざめた坂上だが、それどころではなくなった。急に吐き気をもよおしたのだ。
「……うっ!」
トイレに駆け込む暇さえなかった。坂上はその場にうずくまり、売り場の床に胃液を吐き散らしてしまった。
「坂上!」
日野は心配そうに顔を覗き込み、落ち着くまで背中を摩ってくれた。それから迷惑をかけた店員に一緒にお詫びしてスーパーを出ると、日野は言いにくそうに切り出した。
「なあ、坂上。もしかしてさっきのって、つわりじゃないのか?」
「……え?」
まさか。身に覚えかあるかどうかはともかく、男が妊娠なんて有り得ないだろうと思ったが、日野に勧められて妊娠検査薬で調べてみることにした。日野家のトイレを借りて反応を見た結果は陽性だった。
「まだ決まったわけじゃない。病院に行こう、坂上」
ショックを受ける坂上をいたわるように車に乗せ、日野は病院に連れて行った。産婦人科に入るのは恥ずかしく、人目が気になったが、日野が付き添ってくれたこともあって気分は楽になった。しかし受付で変な目で見られてしまい辛くなった。
「すみません日野さん……きっとパートナーだって誤解されてますよね?」
待合室で女性達の好奇の視線に耐えながら小声で謝ったが、日野は微笑んで頭を振った。
「そのぐらい構わない。外聞なんてどうとでもなるさ。お前の身体の方が大事だろ」
優しいにもほどがある。坂上は危うく泣きそうになった。
男であるからと門前払いされなかったのは日野の必死さのたまものだが、病院長が彼の知り合いだということが大きかった。半信半疑で検査してくれた彼は、信じられないとしきりに首を傾げながら、「おめでたですね」と坂上に告げた。