家族ごっこ【下】
#8
家族が出払うと坂上はしばらくぼんやりとしていたが、やがて掃除をしようと思い立って腰を上げた。テーブルの下に掃除機をかけようと椅子を引いた時、望のパスケースが床に落ちているのをみつけた。時計を見ると、とっくに電車からおりているだろう時刻だった。坂上はどうしようか迷ったが、とりあえず会社に連絡をとることにした。連絡先を控えていなかったので、以前教えてもらった会社名から電話帳で調べて電話してみた。
「もしもし、こちら企画課の荒井望の家の者ですが、取り次ぎをお願いします」
企画課に繋ぎますと返答があり、しばらく待っていると、企画課の責任者だという男が電話に出た。
「こんにちは、いつもお世話になって……え?いない?そんな筈は……辞めたって、どういうことですか!?」
うちの課に荒井という者はいない。確かに荒井望は以前勤めていたが、それは二年前までの話で、今は辞めてしまっている。
男の応答に、坂上は愕然とした。
数日後、坂上は外で斉藤と会うことにした。斉藤は公園でイベントを行うのだと言ってはりきっていた。サークルの仲間が設営準備をしているのを横目に、ふたりは話し込んだ。
「ごめん、時間ないのに」
「いや、ちょうど作業が一段落したところだったし。で、どうした?」
「斉藤、前に言ってたよな、荒井家の人達は嘘っぽいって。しあわせな家族を演じてるみたいだって……」
「あ、ああ」
「……そうかもしれない。あの人達、本当は家族じゃなくて、他人同士なんじゃないか…」
「どういうことだ?」
坂上は躊躇いがちに、望の会社に電話した時のことを話した。
「それだけじゃない。調べてみたら、あの人達全員なんだよ。ボクシングジムでも北聖大学でも……彼らが在籍してたのは二年前までだって言われた」
「何だよそれ……」
斉藤は顔を顰め、自分の事のように憤った。
「騙されてるんだよ坂上。自分の勤め先も正直に言えないような連中と一緒にいない方がいい。あの人とは別れるんだな」
「……あの家を出たら、僕には行くところがない。母さんはもういないし、前に話した親戚のおじさんだって、遠縁の僕を可哀相に思って就職の世話をしてくれただけだ。僕はその厚意を結果的に裏切ってしまった。いまさら頼れないんだ。それに、お腹の子供のこともあるし」
「そんなの、当面は俺の部屋に置いてやるよ。子供は……可哀相だけど、おろしたほうがいいな。そんな得体の知れない男の子供、産みたいか?育児って大変なんだぞ。男が働きながら、頼れる女の人もなしに育てるなんて……」
確かに、素性のわからない人間の子供を産むなんて恐ろしい。そもそも、普通の人間が男を妊娠させられるわけがない。たとえば寝ている間に、何か仕込まれたのかもしれない。実はいつかの冗談は本当の事で、望はナントカ星人なのかもしれない。
斉藤と別れたあと、気付けば産婦人科の待合室にいた。中絶について相談するためだ。しかし受付を済ませて周りを見回すと、お腹の大きい女性達が、穏やかな顔でお腹を撫で、中の胎児に語りかけたりしている。その様子を見るうちに、決心は鈍ってしまった。お腹の子供に罪はない。殺すことなんてできない──そう思った。
夏がやってきた。庭に響渡る蝉の声が、暑さをいっそう意識させた。どこに出掛けるのかわからない荒井一家を送り出すと、坂上はまとめていたゴミ袋を持ち上げて収集場所に向かった。
「よお、坂上」
「日野さん……」
日野の顔を見るのは、随分久しぶりのような気がした。実際、産婦人科に付き添ってもらったあの日以来だった。
「あ、あの時はありがとうございました」
「体調は大丈夫か?無理はするなよ」
日野は笑って坂上の肩を軽く叩くと、不意に声を低くした。
「ところでお前、うちのポヘを知らないか?数日前から姿が見えないんだが」
「いえ……」
それを聞いて坂上は、いつだったか、ポヘが荒井家の敷地内に迷い込んだときのことを思い出した。椿をやたら気にしているようだったポヘ。そのポヘを乱暴に追い出した誠……。
(もしかしたら……)
ある疑念にかられて、坂上は戦慄した。
「坂上?どうした?」
日野の呼びかけに、ハッと我にかえる。
「いえ……それじゃあ」
軽く頭を下げて、坂上は逃げるようにその場を離れた。
夕食の準備を済ませて席につくと、ひとつだけ空席があった。
「遅いわね、友晴」
「ご飯は家族みんなで食べようねって約束なのに……」
友晴がまだ帰宅していないのだ。坂上は家族の態度に首を傾げた。いくら家訓といったって、家の外での付き合いがあれば、少しくらい帰りが遅くなることもあるだろう。まだ、いつもの時間より10分遅れているだけだ。それほど神経質に気にしなくてもいいだろうに。
一方その頃、友晴は“職場”のトイレに駆け込んでベルトを外しながら、ぶつぶつ独り言を言っていた。
「ごめんね、帰ろうとしたら教授に捕まっちゃって、色々手伝ってきたんだ!──まあこんなものでいいよね……」
遅刻の言い訳をシミュレーションし、ジッパーを下げて一息つく。その時、友晴の首に背後からワイヤーがかかった。
「うぐっ!?」
締め上げられ、なんとか逃れようともがくが、ワイヤーは容赦なく友晴の首に食い込み、その巨体を持ち上げていく。足が床から離れ、完全に個室のドアの横木の所まで吊り上げられた時、友晴は既に息絶えていた。