フェイクラヴァーズ
「お、お客様……そそ、そちらの方は、いいい、一体……っ」
注文の品を運んできた店員がカタカタと震えながら示す先に目を遣ったふたりは、あまりのことに絶叫した。
「ギャアアアア!」
「うわあああああっ!?」
夕闇迫る街並みをバックに、窓辺に張り付いて恨めしそうにこちらを睨む女──。
気付いた他の客からも次々と悲鳴が上がる中、ふたりはどさくさに紛れて店を後にした。
他人に迷惑はかけられない。ふたりは追ってくる女を誘導するように人気の無い路地へと入って行った。
迷路のように入り組んだ住宅街を抜け、たどり着いた先には天外神社。予め決戦の場にしようと決めていた場所だ。
しかし予定外のタイミングでスタートし、ノンストップで走ってきたため、語り部達や斉藤と綾小路が出遅れたことに、ふたりは気付かなかった。
沈みかけた太陽光の残滓が辛うじて足許に影を生む時分では、境内に人気はなく静寂に支配されている。
時折門外に車が行き交い、犬の散歩をする人の姿が見られる他は、まるで世界にふたりきりになったような錯覚すら覚える。
乱れた息を整えて横を見れば、坂上は未だ胸を押さえて苦しそうにしていた。
「大丈夫か?」
「は、はい……こ、怖かった、です……」
心配になって覗きこめばその表情は青ざめ、肩が小刻みに震えていた。怪談が苦手な坂上にとって、あれは刺激が強すぎたのだろう。
日野は坂上の肩を包むように引き寄せた。
「ひ、日野先輩っ……」
演技だと思ったのか、坂上はおずおずと日野の背中に腕を回す。遠慮がちなぬくもりに思わず笑みが零れた。
「坂上……」
腕の力を強め、更にきつく抱き締める。坂上は抵抗せず、おとなしく腕の中におさまったままだ。
高揚する心を抑えきれずに熱い吐息を漏らしながら、日野は坂上の耳元に唇を寄せた。
「芝居じゃない……俺は、お前が………」
最後まで告げる前に、それは飛び出してきた。
「ひひひひひ、殺す!ころしてやる!!死ね!死ねっ!!」
長い黒髪を顔を隠すように前に垂らした女は、興奮したように奇声をあげながら、坂上の背後に襲い掛かる。
「坂上っ!」
女の手に銀色に光るものを見つけて、日野は咄嗟に坂上を突き飛ばした。直後、脇腹に衝撃がくる。
「っ……!」
「あ……い、いやあぁっ!」
視界が揺らぐ。脇腹に手をやれば濡れた感触がした。
女は狂ったように泣き叫び、手にしていたナイフを取り落とす。
石畳の上に転がる凶器を、日野は無感動に眺めた。
「ひ、日野先輩!日野先輩!しっかりしてくださいっ!」
坂上が駆け寄って来て、泣きながら日野の身体を揺する。
「おまわりさん!こっちです!」
福沢の声がする。と同時に、続々と語り部達が駆け寄ってくる気配がした。
「しっかりしろ、日野!今、荒井が救急車を呼んだからな!」
「僕に一万円返さないうちは死んじゃダメだよ」
「風間、新堂、どいてくれ。応急措置をする」
それらの声は、どこか遠い。そしてどんどん遠ざかっていくようだった。
(俺は……死ぬのか……?)
薄れていく意識の中で、投げ出した手を握り締めるぬくもりだけが確かなものだった。
目が覚めると、そこは病室だった。傍らには女装していない坂上がひとりで座っていた。
「よかった……!日野先輩!」
「坂上……あれからどうなった?」
未だはっきりしない頭で尋ねると、坂上は簡単にこれまでのことを説明した。
ストーカーは傷害の現行犯として補導されたこと。彼女には精神障害の疑いがあるとして、入院が検討されていること。事情聴取を受け、坂上の女装がバレて、「素人が囮捜査のまね事なんかするんじゃない!」とこってり絞られてしまったこと──。
すべて話し終えた後、坂上は緊張の糸が緩んだように微笑んだ。
「本当によかった……日野先輩が無事で……」
その頬に光る涙の筋をみつけて、日野は満ち足りた気持ちになった。
「なぁ、坂上……」
「何ですか?」
「今から、本当の恋人にならないか?」
──坂上は、真っ赤になって金魚のように口をぱくぱくさせてから、やや間をおいて、こっくりと頷いた。
[09.11.09 - Colpevoleより再録]