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パニック・ヌーン

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死体から、流れ出て無為に、かわいたコンクリートに染み込んでゆく体液、まるで砕かれた水鉢のなかから投げ出されては、酸欠にあえぐ魚のような眼は、もはやひかりを、その表面に映すことはない。


つかんだ窓枠の、日陰に措かれたきりのアルミサッシが、指のさきを冷してゆき、次第に体温は、体じゅうから血を流し尽くした、死人のそれと等しくなる。
瞬きもできないうち、目で追いすがる対象は小さく縮んでゆき、やがて底の底へと飲み込まれては、くらい影に同化してしまったかのようだった。
そうして地面に強か叩きつけられたであろう音は、けれど、ただ単純に窓辺からの距離が遠すぎたのか、あるいはここ最近の、季節風が吹き荒ぶのに紛れたのか、かれの耳では、捉えることは適わない。


らせんの非常階段を降りきった底で、白石は、あたりに拡がるみず溜りの跡を見下ろした。

あらかた流れ出てしまったそれを確かめたのち、緩慢な動作で腰を折って、おもむろに引き揚げれば、さかさに位置を転じた、いびつにひしゃげた容れ物の、うつろに開いた口から、うすぐらい中空へと残滓が零れて、たちまちびしゃりと墜落する。
そのまま、落下地点から数歩先の焼却炉へと、場所を移して、つるつるとした薄っぺらい識別札の、印字を読みあらためたのち、おざなりに爪をかけ、かきむしるようにして胸元から引き剥がした、これで所属は一目で知れなくなっただろうか。分かたれた外装と本体とを、それぞれ別の場所へと捨ててしまえば、こうして転落事故を装った殺人事件の類末に、かたがついてしまうのだった、さも呆気なく。

昼下がりの校舎裏に、いまだ人の気配はなく、すべてを放りやって空になった手を、なんとはなしに地面に触れさせるように蹲れば、気づいたのは、上履きのつまさきに、つい先ほどできたのであろう、跳ね返しの染み、指のはらで擦って、わずかに眉をひそめる。どうかしたら、舌打ちをさえしていたかもしれない。
にわかに間延びしながら響いた鐘の音、つられるように顔を上げて、今し方ここへ来るときに、くぐり抜けた昇降口の方角を顧みれば、そびえる校舎棟を縫うようにして、白じらと降り注いだ陽光に、その輪郭をかがるように燃やされながら立っているのは、先だって亡くしたばかりのひとの似すがた。


「お前あれ、まだなんぼも口つけてへんかったんちゃう。なんや俺だけ、悪い気がするわ」
「なんでお前が。俺が自分で落っことしてもうただけや」
「そんでもよりによって、すこんと三階からこないなとこまで。まあ、あない窓際に置いとった時点で、危なっかしいと思うててんけどな」
「ほんまかあ?  なら早う言うたってや。俺としたことが、勿体ないことしてもうたわ」
「自販寄ってく?  ……て、もうあかんか、昼休み終わってもうとるわ。教室帰るで、ダッシュや白石」
「そないに急ぐことあれへんやろ、いま予鈴鳴ったとこやないか」

ふと、くまひとつないはずの空を、仰いだ眩しげな横顔に、倣ってみても、白石の立ち位置からは、くらい建物の影に、視界が遮られるばかりだった。そのうちに、怪訝そうにして、謙也が呟く。

「そない降りそうか?」
「なんで」
「なんか、」

陽の当たらない場所の、湿っぽい空気のなかに混じって、あまったるいような、薬くさいような、においが鼻先を過ぎってゆく。
さしあたっての殺害現場には、浸透圧の等しい擬似体液が染み込んでは、ぽっかりと深い穴があいたようにみえる地面、ちょうど色を変えているその跡を、ひるがえした踵で、そっとにじって、殊更ゆっくりと確かめるような足取りで、いつも通りの日常に、さらされた白昼の明るみへと、白石は、引き返してゆくのだった、タグの貼られた上履きの踵に、みじかい影を共連れて。
作品名:パニック・ヌーン 作家名:ちず留