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明日への帰路(レイとシンジ)

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「碇君」

綾波レイの、紫陽花を濡らす小雨のように静かな声は、それでも聞き漏らされることなくシンジの耳に届いた。彼女の声からは、感情というものを余り窺い知ることができない。彼女の美しい造形の顔からだって、その色を読み取ることは難しかった。それでもシンジは、どうしてか不安にはならなかった。他者の視線に常に怯える少年にとって、計り知れない視線に曝されるのは恐怖でしかないはずなのに。
現に今だって、抑揚のない声で呼ばれ、振り向いた先で合わさった石榴色の双眸に見つめられても、少しの恐怖もない。それどころか、なにやら安堵のようなものまで込み上げてくる。ほぅ、と一息吐いて、シンジはレイに微笑みかけた。この奇妙な感覚の訳を、彼自身不思議に思いながら。

「なに、綾波?」
「…あした、」
「明日?」

単語一つを零して、レイは薄い唇をつぐんだ。言葉を発する前と変わらずの静けさに、シンジは耳をすました。厭じゃない沈黙。息苦しくない時間。この静かな波に身を任せるのは苦ではない。放課後の喧騒も遠く過ぎ去る。拡散していく空気の優しさが、彼の肌を撫でた。
色素の薄いレイは、教室を染め上げる夕陽に縁取られている。緋色を灯した彼女の長い睫毛が、数度音もなく瞬くのをシンジは見た。その奥の、彼女の石榴色が滲むことなくじっとシンジを写している。

「あした、帰り…一緒にいい?」

しばらくして口を開いたレイのそれは、随分とつたない響きのようだった。淀みのない彼女の瞳のような、透明で純粋な音。顕著な抑揚こそなくとも、その音には温度がある。それが耳殻を震わせるだけで、シンジは自分の内側が穏やかに拡がるのを感じた。自然と綻ぶ口角は、けっして薄っぺらなものではない。優しい気持ちになるのだ。ぎりぎりと首を締め上げられるような恐ろしいこの世界。しかしレイからは、その匂いがしなかった。彼女の隣でだけは、シンジの気管は滞りなく酸素を取り込み、二酸化炭素を排出する。

「今日じゃなくて、明日でいいの?」
「えぇ、あした」
「うん。いい、よ」
「そう…それじゃあ、約束」

さようなら。薄い鞄を手に踵を返した背中を、シンジはぼんやりと見送る。世界は緋から濃紺へと色を変え始めていた。その中でも、去っていく彼女の華奢な姿は何処か浮き立っている。あぁ、自分はこんなにも容易く、世界に呑み込まれて(濃紺に滲んで)しまうのに。
呼吸の仕方を忘れてしまいそうだった。もどかしさに瞳を閉じると、シンジの耳元で去ったはずのレイの声が巡る。その温度が、彼女の残したささやかな約束の愛しさが、全身を満たすから、この恐ろしく残酷な世界でシンジの所在に色が灯る。

「それじゃあ…また、明日」

呑み込まれていく教室に背を向けて、シンジは明日への帰路につく。



End