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愛は確かにそこにあった(ケンシン)

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底のすり減った靴。草臥れた肩掛け鞄。傷だらけのカメラ。ケンスケの持っている物なんて、そんなものだ。大切な物なんて、それこそ少ない。人類最期の日には、このカメラの中にその全てを詰め込んでやろうと思っていた。

温かった。押しつけた唇の、その柔い感触と同じくらい。だからだ。だから、こんなにも泣きそうになるのだろう。シンジの滑らかな首筋に這わせた手に緩く力を込めて、ケンスケは思った。
何処かに、何処までも、そう信じていたのはいつのことだったのか。もうずっと以前のような気も、それと同時に最近だったような気もした。おかしな話だ。こんな時に、こんな場所で、こんなことをしているのに、どうして意識は別の次元に飛んでいくのだろう。どうして何度も、他愛のないあの日常を繰り返し思い描くんだろう。
すすけた匂いがする。蒸した苔と、湿った空気と、ささくれた床板。旧い境内は濃い緑に覆われて、太陽の色も凶暴さをひそめている。それでも、ケンスケのこめかみには温い汗が伝い落ちる。そしてそれは、白さを増したシンジの頬に。

「あしたの、お弁当…オムライスが良い、って言うんだ。アスカが」

だからきっと、希望に応えないと機嫌悪くなるんだ。恐いんだよアスカ、怒ると。
そう気怠そうな声音で、シンジは笑う。何事もないかのように明日のことを思って。おかしな話だ。こんな時に、こんな場所で、こんな形で友人に馬乗りにされているというのに。首、苦しいだろうに。明日を思って彼は笑うのだ。それなのに、笑っているのにひどく泣きそうに見えて、だからケンスケの瞳は水分を落とし始める。はら、はら、はら。見たことはないけれどきっとこれは、遠い過去の冬に降ったという雪に似ているのだと思った。雪はケンスケの眼鏡のレンズに落ちて積もって、それから溶けて零れて…。

「それに…ケンスケの手、小さいから…」

それでもお前よりは、大きいよ

「ケンスケ、僕とそんなに…背丈だって変わらないし」

でも、サバゲーで鍛えてるから、お前より体力だって、筋力だってある…

「ケンスケは、優しいから…」

なぁ、優しさって、何…

「だから、きっと…」

きっと無理だ。知っていた。そんなこと、ケンスケはわかっていた。
底のすり減った靴。草臥れた肩掛け鞄。傷だらけのカメラ。ケンスケの持っている物なんて、そんなものだ。こんな靴じゃあ、何処にも行けやしない。こんな鞄じゃあ、何にも入らない。こんなカメラじゃあ、一瞬を永遠にすることは出来ない。大切な物を、詰め込めない。

「シンジ、ごめん。俺…」

歪んだレンズ。ケンスケより少しだけ小さなシンジの手が伸びてきて、溶けた雪を積もらせた眼鏡を奪っていく。だからきっと、シンジのあの以前よりも白さを増した頬をそれは、零れ伝って濡らすのだろう。泣きそうな顔で笑う彼が泣かない分だけ、きっと。
滲む視界のわけは視力のせいだけではきっとないから、ケンスケは精一杯唇を噛んだ。言葉ごと、どうにもならない現実なんて呑み込んでしまいたかった。

「ケンスケ。明日のお昼は、オムライスだよ」

明日、シンジはお弁当を作るだろう。我が儘お姫さまのリクエストした、オムライスを。お姫さまのご機嫌は上り調子だ。律儀なシンジは俺たちの分まで弁当作ってきてくれるだろうから、それでもってそれがすごく美味いものだから「うまいうまい」ってトウジががっつく。綾波はもくもくと食べ続ける。俺も「お前は将来良い主夫になれるぞ」って、からかい半分に云いながら箸は止めない。それでシンジは、眠たげな瞳を細めてこう云うんだ。「あぁ、よかった」って、そう云って笑うんだ。笑って、明日もきっとエヴァに乗る。

「じゃあ…明後日は、」
「うん…」
「明後日は俺、お前のみそ汁が食いたい」
「うん」
「だし巻き玉子も、煮物も、ハンバーグも、春巻きも…食いたい」
「あはは、さすがに一気には無理だよ」
「だから…だから、さ」

明日も明後日も、その先もずっと、ずっと生きろよ。生きて、此処に居てくれよ。
シンジの首から彼の温度の移った指先を解きながら、ケンスケは力なく呟いた。呟いて、耐えきれなくなってその細い首元に顔をうずめる。随分と身勝手な懇願をしているように思った。事実そうに違いなかった。この腕の中で死んで欲しいと願う一方で、シンジに生きて欲しいと思うのだ。身勝手にも、それこそ切実に。
それなのに、プロポーズみたいだね、とふざけた調子でシンジは笑った。


End