奏
特別教室が並んでいる校舎の一角から、ピアノの音が響いていた。始めはたどたどしかった音色も、要領を思い出したのか今では流れるようなそれに変わっていた。音楽教室の中にはピアノが一台。椅子は数えるほどしか置かれていない。兵役学校に来てまで音楽をするものなど滅多に居ないからだ。
そして、ニコルはその『滅多に居ない』生徒の一人だった。
数少ない椅子の一脚にアスランは腰を下ろし、じっとニコルの奏でる音を聞いていた。ピアノの善し悪しはアスランには分からなかったけれど、特に問題は無かった。アスランにとって重要なのは、その音をニコルが奏でているということだったから。
ふと、ピアノの音が止み、つられてアスランは顔を上げた。
「僕の手は、人を殺すよ」
今まで自分の意志では無いようになめらかに動いていた自分の指を見つめながら、ニコルが言う。
人を殺すための手。どれだけ単純に、そして多くの人間を殺せるか。
ニコルとアスランはその訓練を嫌と言うほど受けていた。あまりにも簡単にシミュレーション上の人間は死んでいき、そうすることに感情が麻痺するほどだった。
「…そう、だな。そうだったんだ。俺はそれを、」
「もう決めたんだ。そういう風に生きていく」
人間が人間らしく生きていくように、彼らはきっとそうしないと生きていけない。
「ねえアスラン。君の手は人を殺す以外に何が出来る?」
目線を上げてニコルが聞いた。その顔はいつもと違うところはどこにも無くて、アスランは安心した。こんな話をしているのに。殺す手を身体の一部としているのに。そんなニコルに安堵している自分を感じ、滑稽だと笑いたくなった。
そっとニコルの指に触れる。あんなに自由に動いていたニコルの指は冷たくて、アスランには暖めてやることも出来無かった。
冷たかった。アスランの指も、ニコルの指も。どちらも同じような体温だから、暖めあうことすら出来ない。
やがてニコルはそっと指を外し、もう一度ピアノに向き直った。
小さく息を吐き、鍵盤に指を這わす。白と黒のコントラスト。
白い指が鍵盤を辿る。どこか聞いたことのある旋律。
アスランは答えることが出来無かった。
殺すための手。亡くしてしまう手。
自分が罪深い者だと思いたくなかったのかも知れない。
「何も出来ないよ。俺には」
結局、アスランが口にしたのはこの一言だけだった。
何も出来ない。人を殺す以外何も。
その技術を身に付けようと決意したのは自分だし、そのことに後悔したことも無かった。ただ漠然と、何も知らない子供だった頃の自分が、ここでは無いどこか後ろで見つめているのを感じるだけだった。
「……嘘だよ」
「え?」
不意にニコルが口を開いた。そのまま、笑みを形作る唇をアスランはじっと見つめていた。ニコルは淡々と言葉を繋ぐ。それは口下手なアスランにはとても眩しく見えた。
「何も出来ないなんて嘘ですよ、アスラン。だって貴方はハロを作ったでしょう?」
「それはそうだ、けど」
ただ機械好きなことが高じただけ。別に、ハロじゃなくてもよかった。それが機械と言う名のものであれば。出来上がったハロを許嫁に渡したのも、特に意味が合ったことでは無い。
「貴方がハロを作ることによって、彼女は笑顔になった。それが答えですよ」
笑顔。笑った顔。それはいつか見た誰かを思い出させた。
いつか見た、嬉しそうなあの笑顔。
あの頃はいつだって毎日が楽しくて、大切だった。小さなアスランが作った小鳥を模した機械仕掛けのペットロボットを、記憶の中の小さなキラは大きな瞳をもっと大きくして見つめていた。うわあとか、これ貰っていいの、という言葉を聞いた気がする。聞かれるその度に律儀に言葉を返していた。嬉しそうなキラを見ているとアスランも嬉しくなったから不思議だ。
血で汚れたこの両手が、誰かを喜ばすことが出来る。
ただそれだけが生きている証明。
「結局は一緒のことですよ。貴方のハロも、僕のピアノも。ただそれで誰が喜ぶかと言うことです。人が人を幸せにすると言うこと。イザークにもディアッカにもきっとあるんです、その何かが」
でも僕はまだまだなんですけどね、と肩を竦めてニコルは笑った。
行きましょうかとニコルが言い、アスランは短く返事をする。
カタンと小さな音を立ててピアノは閉じられ、二人はそのまま教室を後にした。
教室から寮までの短い距離のなか、ニコルとアスランは何も言わずに歩いた。