たえて桜のなかりせば
「なんやって?」
「んー」
問うてくる声には答えず後ろから前に流れる薄淡いピンク色に向かって手を伸ばした。
指の先からひらひらと逃げるように散っていく花びらを荷台から伸び上がって一枚だけ掴む。
「おい、俊! あっぶなァ。倒れたらどうするんや」
前の門脇から慌てたような声があがる。
「お前がこれくらいで倒れたりするわけないやろ」
バランスを立て直した自転車は危なげなく進んでいた。
お前が負けたんやからしっかりこげよーと笑い混じりに言うと、門脇は生真面目にうんと返事をする。
かしゃんかしゃんと緩んだチェーンの擦れる音が人気のない春の道に響く。両脇に植わった桜の木は盛りを少し過ぎたところ。風が吹けば視界を埋めるほどの花びらが舞う。桜吹雪。陳腐な言葉がこれほど似合う光景も珍しい。週末になればこの先の公園にも花見客が押し寄せるはずだった。でも明日から雨だと今朝の天気予報で言ってたからきっと花はもたないだろう。花なんかオマケに過ぎない宴会目当ての花見客には咲いてようが散ってようが関係ないのかもしれないけど。
もやのかかったような横手の春。散り急ぐように少しの風にも花を散らす桜の下を自転車の荷台に載ってくぐる。県内一、いや全国でも確実に5本の指に入るはずのバッターに自転車を漕がせて優雅に桜見物。おれってばお大臣みたいやないか、と心の中でちょっとだけ笑った。ゆるく握った手のひらを開くとさっき掴んだ花びらが風に飛ばされていった。
「―― んや?」
「は? なに?」
ほんの一瞬桜に見とれていて、門脇の言葉を聞き逃した。
「なんや。俊でもぼっとすることってあるんやな」
「うるさい、ちょっとみとれとっただけや。おれって風流人だからな。おまえみたいにただ呆けてんのとは違う」
「…お前な」
「そんで、なんだって?」
門脇の背にべたりと背中をくっつけて、空を仰ぐ。さくら、さくら、そしてのぞく蒼。街道の切れ目まできて、突然のぞいた太陽に目を細めた。
春は眩しいものがたくさんで困る。目を向ければ眩しくて焼かれそうになるのに、それでもきらきらと瞬いて魅かれずにはいられない。遠ざかっていく桜にも、野辺に咲く名前の分からない黄色い花にも、柔らかくぼやけた空の色にも。
「あぁ、さっきなんか言うてたやろ?」
能天気な声が現実に引き戻す。
「世の中に、ってやつか?」
「そう、そんなん。なんや、それ」
「在原業平やろ。習わんかったんかい」
「さあ…。忘れた」
端っから覚えているなんて期待していなかったが、あっさりと悪びれもせず忘れたと言う門脇にあほと言い捨てて、まぶたを閉じた。
世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどかけらまし
背中あわせの相手に聞こえるように少し大きく出した声は風にさらわれて消えていく。
「お前の言うことは難しくてわからん」
「桜を称える歌や。春に桜なんてもんなかったらよかったのになあ、ってな」
「さくら?」
「あたっ!」
急ブレーキに後ろに仰け反った。その拍子に脳天がでっぱった肩甲骨に当たる。門脇が自転車を路肩に止めた。
「なんじゃ、急に! お前こそ危ないやないか!」
振り向くと、門脇と目があった。その目がふい、と遠くを見る。つられてそちらを向けばさっき通ってきた桜並木がまだ被いかかるほどの近さで目に入った。
「綺麗だな」
まるで今気付いたとでも言うようにしみじみとした声。もしかしたら、あの盛りと咲いた桜の下を通ってきながら本当に今気付いたのかもしれなかった。それがあんまりにも らしくて、声を出して笑った。
いつだってそうだ。この幼なじみの目は違うものを見てる。野球が第一。その他は石ころ。
野球に関することにはフットワーク頭の回転も軽いのにな。それ以外はてんで駄目。
勉強も苦手だし、風流も解さないし、人の気持ちにも疎い。
あほやな、秀吾。お前みたいなやつを野球馬鹿っていうんや。
でもお前はそのままでいろ。綺麗なものも、汚いものも、焼き尽くされるような感覚も、すべて乗り越えたところにある神聖なグラウンドで白球を見つめていればそれでいい。後ろなんか振り向くな、秀吾。ただ、真っ直ぐに前を見て。いいか、間違ってもな――間違っても振り返っておれの顔なんか見たりするな。
魅入ったように桜並木に注がれていた目が瞬いてばちりと視線が合った。
「それが桜の歌なのか?」
「昔の人曰く、な」
「なんかよくわかんないな」
「自分の頭で考えろ。馬鹿になる」
ああ、もうなっとったっけ?と笑う。ムッと顰められた眉の間を弾いた。
「ほらほら、秀チャン! 休んでないでーしっかり漕げやー。自転車漕ぐ姿もステキよーん」
「あほ! つかまっとけ。落とすぞ」
横腹を拳で小突かれた。がしゃんと音がして車輪が動き出す。
ゆっくりと遠ざかってゆく並木道。
「……お前には、わからん」
お前は馬鹿だから。きっと一生わからない。
桜なんてなければいいと言った気持ちが。何よりも慕わしいものが消えればいいと願う気持ちは、きっとお前にはわからない。もうそんなものなければいっそ平静でいられるのにと、疎ましいと言いながら、引き裂かれるようになによりも誰よりも 待ち望む歌。
嫌な歌だと思う。浅ましい、卑屈な歌。
業平さん、ごめんな。でもおれはこんな歌を詠むヤツ好かん。こんな感情知らんしね。そう片頬で笑い飛ばせれば。そうできれば、どんなにいいか。
笑うために歪ませた唇の形が、別の感情を伝えてしまいそうで動くことも出来ない。かといって、忘れることだって出来やしないのだ。そんな中途半端な自分が一番卑屈だった。
「なんか言うたかあ?」
前を見たまま呼ぶ声はなんの疑問も抱かない能天気な響き。
馬鹿な秀吾。長い付き合いやったな。それももう、あと一年で終わるけど。
「んー。スピード上げろって言った。腹減ったわー」
途端に自分の腹がぐうと鳴った。ぷっと吹き出した門脇に文句を言おうとしたら、呼応したようにその腹からもぐぐぅとこもった音が鳴った。
「あ~、おばちゃんのマヨコロが食いたーい」
「昼は無理やろ。まあ、お前が言うたら張り切って作りそうやけどな、あのオバハン」
くぐもった笑い声を乗せて自転車の速度は次第に上がっていく。
ぐんぐんと勢いをつけて世界が流れる。
「もう見納めやな」
「なんやぁ、聞こえん」
「さくら、」
背中に門脇を感じながら、遠ざかる桜に手を振った。
作品名:たえて桜のなかりせば 作家名:スガイ