ハートを玩弄してくれるなよ 上
愉快な名前の竜ヶ峰帝人には好きな人がいた。そのひとは、帝人の名前をはじめて聞いたときいっさい驚きもしなかった。これはなかなかレアなケースである。けれどまあ、その時点までに自分がやっていたことが彼の興味を引いていたようだし、もしかしたら調べたのかもしれない。―――もちろん、ただそれだけで好きだとか言っているわけではない。帝人自身、自分はそんなに単純ではないと思うし、思いたい。けれど、実はすごく単純で、自分だけが単純でないと信じたがっているのかもしれない。
なんだかんだと言ったところで結局、胸の内はシンプルだ。折原臨也という得体が知れなくて正体が知れなくて、趣味が悪くていい人なんかじゃ絶対なくて、やさしさだとか愛情だとか、そういうやわらかくてあたたかなものを踏みにじるようなひとでなしが好きなのだ。ああもう。
そんな人を好きになったせいで、ただ好きでふわふわしているような人間でない自分に心底嫌気がさした。たとえば、ひとりでいるときにあのひとの神経質そうな手を思い浮かべる。先がすうっと細くなっていて、暖かくも冷たくもない手は、けれどやはり男のひとの手で、節だってごつごつとしていた。自分の手よりずっとずっと大きいその手に、触られる自分を思い浮かべる。たとえば、ひとりでいるときにあのひとの酷薄な唇を思い浮かべる。よく動く唇が動きを止めるところを思い浮かべる。薄い唇に触れられることを思い浮かべる。たとえば、手をつなぐ自分を思い浮かべる。あのひとの体を思い浮かべる。抱きしめられる自分を思い浮かべる。首筋をなめる自分を思い浮かべる。髪の毛の感触を思い浮かべる。手の大きさを知る場面を思い浮かべる。乳房をたどる手を思い浮かべる。臍へとすべる唇を思い浮かべる。あのひとのにおいを思い浮かべる。
自分が、抱かれたいと考えていると知ったら、あのひとはどう思うのだろう。抱かれている様を想像していると知られたら、どう思うのだろう。笑うのだろうか、蔑むのだろうか、見下すのだろうか、侮るのだろうか。どれがどれでも、泣きそうに腹が立って仕方無かったというのに。
それだというのに、あのひとは、実際は、何と言った。
『それ、本気?』
いつもの笑顔で、一ミリも表情を動かすことはしなかった。
やっぱり、腹が立って泣けてきた。どこまで人を馬鹿にすれば気が済むんだ。最悪だ。想像は想像にすぎなかった。現実は、想像よりもひどい。折原臨也は、受け入れることもせずに拒否をしてみせた。馬鹿みたいだ。馬鹿みたいだ。馬鹿みたいだ。馬鹿だ。いっそ死にたい。
「もう、違う。絶対違う。なんか違う。何かの間違いだ。僕が好きなのは折原さんじゃなくて、ええと、そう静雄さんだ。静雄さん。良い人だ。少なくともひとの告白に対してあんなふうなことは言わない。そうだ、だから、僕が好きなのは静雄さんで、ちょっと今は間違っちゃってて、アレだ、臨也さんと静雄さんが一緒にいるとこを見かけることが多いから、なんかそれでちょっと勘違いしちゃっただけだ。だから、うん、そう、間違いだ。まちがいだまちがいだまちがいだまちがいだまちがいだ」
暗い部屋の中でそんなことを呟いていたら、いつの間にか上も下も右も左も、常識も思考もおぼつかなくなった。
親友が風邪でダウンして、今日で三日目になる。その間、毎日のように見舞いに行っている紀田正臣は、その日もまた見舞いに来ていた。今日は杏里には委員会があって、そのぶんよろしくと頼まれていた。
昨日はまだまだ熱が高くて心配したのだが、一応の食事と、薬を飲ませたら少しは良くなっていたらしく、朝は絶対に顔を出さないと厳命されてしまったため、またしても放課後に顔を出すしかなかった。さて、無事に熱が下がっているといいのだが。
安っぽいドアにちゃちな鍵を差し込んでまわした。わずかな手ごたえ。寝ていることを考え、音に気をつけながらノブを回す。おじゃまします、と口の中でつぶやいて部屋をのぞきこむ。昨日と何も変わっていない親友の家だ。そして、肝心の親友は、玄関からも見えるベッドの上で布団もかけずに丸く、蹲っていた。頼りなく薄い肩が、震え、はやい呼吸の音が聞こえた。
「っ帝人?!」
何をしているんだ、と苛立ちながら靴を脱ぎすて、駆け寄った。掴んで向かせた顔は涙やらなにやらでぐちゃぐちゃだった。風邪のせいで顔は真っ赤だし目は潤んでいる。呼吸ははやく、そしてときどき咳きこんだ。
そんなにつらいのか、と焦って舌打ちをしたいくらいだった。帝人はしばしぼんやりと宙を見つめていたが、ふと、正臣に焦点を結んだ。そう、正臣が認識した途端、ただでさえぽろぽろととめどなく流れていた涙が、滂沱の涙と化した。思わずぎょっとする。
「まざおみー…」
全部に濁点が付きそうな勢いで、帝人が正臣の名前を呼んだ。おお、とやっと動き始めた脳みそで、正臣はひょいと帝人を抱き上げてベッドに寝かせた。布団をあるだけかける。帝人が咳きこんだので、昨日買ってきておいたミネラルウォーターをなんとか口に含ませた。なんとか飲み込んだ帝人だが、ぼたぼたぼたぼた泣きながら寝ていると鼻が詰まるらしいもそもそと起き上がったので、壁に寄り掛からせ、あるだけの毛布やらなんやらでぐるぐるにしてやった。
けほけほけほ、と咳をしながらも、帝人はぼたぼたと泣いていて、正臣には手の出しようがない。何かしてやれることもないので、軽口を叩きながら肩を貸してやることにした。帝人は、うーっと歯を食いしばって泣いた。それでも、しゃくり上げるたびに泣き声が漏れる。ぽんぽんと背中を叩く。正臣も男なのだけれど、けれどそれ以上に親友なので。
どうしたのか、と聞くべきだろうかやめるべきだろうか。帝人は、ずいぶんと弱っているようだ。肩にかかる重さでもそれはわかる。いつもの遠慮がちな接触ではない。まんま、預けられている。これはとても珍しいことだ。
とりあえず、今は黙っていることにして、抱きしめる。落ちつけようと背中を叩く。そこに、帝人は爆弾を投下してくださった。いざやさんのばかー、と言う。言いながら、しゃくりあげる。何をされたんだと慌てた。帝人もいちおう女なのだ。
「何された?!」
思わずひきはがし、目を見つめて問いかける。ぼろぼろぼたぼた涙があとからあとからわいてくる。そんなに泣いたら目が取れてしまうんじゃないかと少しだけ思った。がしり、と思ったよりも力強い手、けれどまあ、病床にしては、というところだけれど。それにしたって、何かしらが伝わってくる強さではある。
「ふられた、の!も、もう、べつに、何か、して、ほしいとか、じゃなくて、だから、」
とぎれとぎれに語られた言葉の内容に、正臣の思考は完全にフリーズした。親友は、かの折原臨也が好きだという。しかも、それを彼に言ってしまったようだ。夢見がちでもなんでもない少女が、言うつもりなどなかっただろうに、言わざるを得ない状況を作り出した男を憎んだ。何をやってくれてるんだ、と思う。そして、目の前でぎりぎりとつりあがる親友の眦は、非常に険呑だった。
帝人は正臣にがばりと抱きついた。ぎゅううううと腕で首を絞めながら(そんなに痛くない)吠えた内容に、正臣は気を失いたくなった。
作品名:ハートを玩弄してくれるなよ 上 作家名:ロク