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そして君は何も残さない

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ふいに聞こえた懐かしい声に懐かしい言葉。ここじゃあまり聞かないその言語に思わず目を向けると、そこには懐かしい後姿があった。
なんでここに?
そう思いながらも嬉しくて目を細める。
記憶の中と変わらぬ痩躯。危ういその後姿に声をかけた。

泥だらけの彼を連れ帰り、シャワーを浴びてもらっている間に着替えを準備する。
今日はもう寝るだけだからとりあえず着れれば良いだろう。けれど明日は?
明日着てもらうシャツやスーツのサイズは大丈夫だろうか?
昔は――自分が幼少の時のことだ――彼の背中は途方もなく大きくて広いものに見えていたけれど、成長するにつれてそうではないことを知った。
久しぶりに見たその姿も、昔の記憶と違わず痩せっぽちのままだった。
これが祖国なのだと思うと愕然とする。
その危うさ、小ささに。
絶えず聞こえていた水音が消える。慌てて着替えとタオルを持っていく。

彼の手をとり、脱獄の際に割れてしまった爪を整えながら思うことは、祖国の危なっかしさだった。彼は平気で敵地に乗り込む。
手のひらも指も薄く骨ばっているくせにごつごつとしている。それは銃をナイフを握る戦うものの手だった。
事実、彼は強い。けれど、彼の体はこんなにも貧弱なのだ。
小さく薄い体で、彼は戦いの場に平気で出る。自ら戦地に行く。
彼は少しもじっとしていてはくれない。

どちらがベッドで寝るかでひとしきりもめ、最終的には2人で1つのベッドに寝ることで落ち着いた。
といっても、スパイ生活の身の上。当然住んでいる部屋も広いわけではなく、そんな部屋に置いているベッドが広いわけもなく。男二人が寝転ぶには狭かった。
彼と同じベッドで寝ることに不思議と嫌悪感も違和感も覚えなかった。それどころか、彼の体が落ちないように背に手を回したのは自分のほうだったし、その薄っぺらな体を引き寄せたのも自分だった。彼はちらとこちらを見ただけで抵抗せず自分の腕の中でおとなしくしていた。彼の唇がおやすみと呟き、ゆるりと目蓋が閉じられていくのをただ見ていた。

抱えた体が深く静かに呼吸を繰り返す。
唇からこぼれる密やかな息遣いに耳をすます。
なんだかんだと疲れていたのだろう、その寝息は深かった。
かくいう自分はなかなか寝付けなかった。
久しぶりの祖国との再開。久しぶりの英語での会話。
誰かと1つのベッドで寝ることも久しぶりで、何だか気持ちがフワフワして眠れない。
彼からは微かに紅茶と薔薇の匂いがする。
そういえば、幼少のころのことだが、彼の庭の薔薇を見せてもらったことがあった。
鮮やかに豪奢に咲き誇る薔薇は見事の一言に尽きた。今でもあの庭はあるのだろうか。薔薇は咲いているのだろうか。
いつか、イギリスに帰ることになったら、その時はまたあの庭に招待してもらおう。勝手に決める。
彼にあの庭がまだあるかをたずねるのはやめておこう。あってもなくても、イギリスの土地のことを聞けば帰りたくなってしまうから。
(もう寝よう、明日は早い)
そう思い、彼の体を引き寄せた。薔薇と紅茶の香りが強くなる。
深く吸い込みそして目を閉じた。

そこで自分は眠ったのである。だからそれから起こったことは認識してはならないし覚えていてもいけない。すべてが夢の出来事で決して現実ではない。
彼の眼が薄く開いてこちらを見たことも、彼の唇が静かに言葉をこぼしたことも、その言葉の意味も。なにもかも。なにもかもを。






自分が作ったイタリア式の朝食に、彼が入れてくれた紅茶を飲み支度を整えた。
髪を整え、衣服を整え。うん、なかなかいいんじゃないかなと頷く。
スーツが彼の体にあっていて良かった。
もし肩のラインがずれていたら、彼の手の甲が隠れていたら。自分はどうしたか分からない。

朝食をとりながら確認した国境までの道程をもう一度確認する。彼が頷く。もうすることは何もない、別れの時が近づいている。
彼の目が迷うように揺れる。唇が何かを言おうとはくはくと動く。迷子のような態度に思わず苦笑する。まったくもう、どっちが年上何だか。
「ほら、早く行かないとまたドイツさんに見つかっちゃいますよ!」
そう明るく言って彼の背中を押し出した。
彼は少し惑っていたようだけど、眉を下げて苦く笑った。そうだなと笑いながら小さくこぼす。
じゃあ、またな
そう言って彼は背を向け、去っていった。

彼の声は朝の空気に儚く溶けた。
彼の小さな姿は街にまぎれて消えていった。
昨日いっぱいに吸い込んだ薔薇と紅茶の匂いはエスプレッソの匂いに取って代わった。
自分に残されたものは服越しに触れた彼の骨の感触だけであった。
作品名:そして君は何も残さない 作家名:ouoxux