水辺の幼子
はあ、と途方に暮れた顔をしている家臣を前に、小十郎はぐ、と歯を食いしばって彼方を見遣った。
「全く、あのお方は・・・!!」
いくら冬の厳しい奥州といえど、夏は夏でそれなりに暑い。冬が長いために暑さに慣れていなければ尚更、耐えられないほどの暑さとなる。
恐らく、と見当をつける。主が政務を放り投げて城を抜け出したのは、この暑さにやられてのことなのだろう。
ならば行きそうなところは。
小十郎は城中を回り、主の行方の手がかりを探した。そして見つけたもの―――否、見つからなかったものが、ひとつ。
馬小屋に繋いであったはずの奥州一の駿馬が一頭、消えていた。
あの栗毛はなかなかの暴れ馬で、城の人間では唯一主しか乗りこなすことはできない。そこから導き出されるひとつの答え。
主はあれに乗って遠駆けに出たのだろう。
わざわざあの馬を選んだということは、かなりの遠出を見越してのはずだ。そしてこの暑さ。馬にも水を飲ませねばならないだろうし、どこかの川、水辺に行ったことは確実。
そこから考えられる候補地に、小十郎は頭を抱えた。
主は恐らく―――国境にとても近い場所に向かっている。
たった一人で国境まで赴く城主がどこにいる。
小十郎は城で二番目に早い馬を駆けさせていた。頭の中は主のことでいっぱいである。
幼い頃の出来事の反動なのだろうか。今の主は心配になるほど元気な反面、無茶が多かった。
国を背負う者として忠言はしっかり聞き入れ、常に最善の判断を下す。
けれどたまに、本当にたまにのことだが、生き急いでいるかのような儚さを感じることもあるのだ。その姿を見る度、小十郎は主に向け手を伸ばしてきた。その手が、主に触れることができるのか。それが、不安で。
しかしまあ、今回のことにその類の心配は不要だろう。主は積み重なるばかりの政務に嫌気が差して城を飛び出しただけだろうし、小十郎が抱く思いも呆れと主を一人にさせておくことへの焦燥感のみだった。
水の落ちる音が微かに聞こえてくる。滝が近い。主は恐らくそこにいる。
ここにいなければまた違う候補地まで馬を駆けさせねばならないが、その心配は杞憂だったようだ。
馬の走りを遅くさせる。近くの木に繋がれ、例の栗毛の駿馬が草を食んでいた。
やはり、ここか。
かなり急いだことで無意識に詰めていた息を吐き出し、下馬して自分も近くの木に馬を繋げる。ぽんぽんと労るように体を叩くと小さく嘶き、水を飲み始めた。
小十郎は馬を残し、川に沿ってしばし歩いた。滝の音がかなり近くで聞こえる。乱立している木立の向こうだろうか。
そして視界が開ける。
着流し姿の主が、背中を向け滝壺に佇んでいた。
流れ落ちてきた水が跳ね、太陽の光が反射し幻想的な空間を作り出していて。その中に佇む主はこの世のものとは思えぬほど美しく、儚かった。
「っ、政宗様!」
思わず手を伸ばして叫ぶ。この距離では手は届かなかったが、声は届いたようだ。
主がはっと振り向いた。
「・・・小十郎」
ああ、この世に、戻ってきた。
そのことに安堵の吐息を漏らして、滝壺に近づく。
「何故このような場所にいるのです。あなたは軽々と一人で国境に近づいていいようなお方では―――」
「チッ、まーた小言かよ」
主は苛々と頭を掻き毟り、じゃばじゃば水をかき分けてこちらに近づいてきた。
「なんでここがわかった?」
訝しげに問う主に、小十郎はふうと息をついて答える。
「あなたが行きそうな場所の中でたまたまここを一番先に探しに来ただけのことです」
「運かよ。Luckyだったな」
チッ、と舌を打って吐き捨てるように言う主はひどく不機嫌そうだ。まあ仕方ないだろう。
だがこちらも、主を一人にさせておくわけにはいかないのだ。
「・・・政務も溜まっております。帰りますぞ」
「Ah~・・・」
しばらく不機嫌そうに口を尖らせていたと思ったら、主はん、と手を差し伸ばした。
水から出るのを手伝え、ということかと思い手を取れば。
次の瞬間その手は思い切り引っ張られていた。
「―――!?」
ばっしゃん、と派手な音を響かせて、小十郎は滝壺に落ちる。その刹那、跳ねる飛沫の合間に見えた主の表情は、とてもとても楽しげだった。
その一瞬を切り取ったような錯覚を覚え、小十郎は目を見開いて息を呑む。
けれど体は水に沈み。
慌てて水底に足をつけ立ち上がる。主は悪戯が成功した子供のようにニヤニヤと笑っていて、次第に堪えきれなくなったのかニヤニヤはケラケラに変わっていった。
はあ、と思わずため息を漏らして顔にかかった水を手で拭い、髪を払う。
「水も滴るいい男、だな。小十郎」
クク、と笑う主とてかかった飛沫で同じような有様だ。つまりはどちらもびしょ濡れである。
思わずため息をつき主の名を呼んだ。
「政宗様・・・」
頭痛がしそうだ、と思いながら忠言するべく口を開こうとしたとき、主はニッと笑った。
ぐい、と。
襟元を掴まれ、乱暴に引き寄せられる。
主の顔が目前に迫り―――その瞳は楽しげに細められていて―――そして、閉じられた。
距離は零に。
瞳を閉じた主の顔を零距離で目を見開いて見つめる。
濡れてしっとりと吸いつくかのような唇が、ゆっくり離れ。
主の瞼が持ち上がった。そのまま二度、ぱちりぱちりと目を瞬かせる。
主はじっと小十郎の顔を見つめて―――、
まるで幼い頃に戻ったかのように、柔らかく優しく微笑んだ。