尖らせる爪
背中から抱きしめるように膝の上に乗せた子供。その手を取り、爪をやすりで削ってやりながら、臨也は至福を噛み締めた。
「帝人君の髪、いい匂いがするねぇ」
「変態臭い物言いと行動はやめて貰えませんか」
「でもやっぱり俺と同じシャンプー使って欲しいな。俺が洗ってあげるのは諦めるからさ、せめて同じの使うことぐらいは受け入れて貰えないかなぁ」
短い黒髪に鼻先を埋めてそう言えば、心底嫌そうな声が返ってきた。
「お断りします。臨也さんと同じ匂いとか、精神的に許せません」
「なに? 俺の匂いに包まれてると落ち着かない? どきどきする? ムラムラする? ときめいちゃう?」
「臨也さんはシャンプーの匂いよりも香水の匂いの方が強いのでそんな気にはならないと思います。唯理屈的な意味で耐え難いだろうと思うだけです」
「そっか。じゃあ同じ香水をプレゼントするよ」
「結構です。遠慮して下さい」
冷たい憎まれ口が可愛い。
いや、帝人君ならどんな口調でもどんな言葉でも可愛いんだけど!
膝の上で大人しく、殆ど伸びていない爪を削られているのは、俺を許し受け入れてくれている証。
こんなに無防備に体を預けてくれていながら、口でだけは必ずつれないことを言う。
ツンデレ? うん、ツンデレ。俺のことを意識しているからこその冷たい言葉! ゾクゾクするね! 俺はマゾじゃないけど。
髪を洗ってあげることも、脚をマッサージしてあげることも、服を着せ替えてあげることも拒絶してくれた彼は、唯一爪を削ることは許可してくれた。だから数日おきにこうやって指先を整えてあげている。
できれば毎日してあげたいのだけれど、伸びてもいないのに必要はないと突っぱねられた。本当に素直じゃない。
後何十回か頼み込んだら、足の爪も削らせてくれるだろうか。
「ねえ帝人君。やっぱり足の爪もやってあげるよ」
「必要ありません。自重してください」
三十二回目のお願いは断られてしまった。けれどもそのうちきっと受け入れてくれる。だって帝人君だしね!
帝人君の爪は小さめだけれど案外形はいい。子供の頃から(今も子供だけれど)傷めたり変形させたりするようなことはなにもしてこなかったんだろう。
キーボードの上を走る指裁きは綺麗で、俺ですら感心させられた。そんなことだけに使われていた指なんだろう。細くて、弱くて、頼りなくもある。
この爪を背中に突き立ててくれないかなぁと夢想する。
もう少し長い方がいい。皮膚を抉れるぐらいに。爪の間に俺の血と皮膚片が入り込んで取れなくなるぐらいに。
けれども爪を削る幸せなこの時間を減らす気は毛頭ない。どうすればいいだろう。削るのではなく磨くのに変えてもらえないだろうか。うん無理だよね、わかってる、必要ありませんのひと言で終わってしまう。
「ねえ帝人君、仕上げに磨いてあげるよ、爪」
「必要ありません。しつこいです」
うん、やっぱりね。
さすが俺。ちゃんと帝人君のことを理解してる。
小さくて形の整った爪を、更に綺麗に整えてあげる。
きっとこの爪には血が似合う。キーボードなんかよりもよっぽど。
勿論、俺の血に限るけど。他の人間の血でなんて汚させない。そういう仕事はあのいけ好かない後輩とやらにやらせればいい。手に余るようなら俺がやってあげる。だからこの手は俺の血だけで染めればいい。
いや、俺はマゾじゃないんだけど。唯帝人君の手には似合うだろうってだけの話で。
そう、似合う。だから染めてあげたい。それだけのこと。
お気に入りのシャンプーや香水を使って欲しいのと同じこと。俺が選んだ服に着替えさせたいと思うのと同じこと。
ああ、本当に。
この爪を心臓に突き立ててくれないかなぁと夢想する。
それはどんな気持ちだろう。帝人君の手によって与えられる痛みと苦しみは俺にどんな感覚を起こさせるだろう。帝人君の手が俺の血に塗れるのは俺にどんな感動を与えるだろう。
もっと尖らせて削ってみようか。俺に爪を立てやすいように。俺に刺さりやすいように。
ああ、けれどもそれには長さが絶対的に足りない!
刺さる程に爪が伸びるまでこの体を抱かずこの指を握らないなんて、できる筈もない!
「ねえ帝人君、どうすればいいと思う?」
「なんのことかまったくわかりませんが、臨也さんが諦めればいいと思います」
無防備に体を預けておきながら、辛らつなその台詞!
本当に、なんて愛しいんだろうね君は!