兄を待つ、その間に
「ではまた後ほど。お待ちしておりますわ、お兄さま」
ひらひらと後姿に手を振り、リヒテンシュタインは廊下に設置されたソファーにぽすんと座り込む。ひらりと広がるスカートの裾を押さえ、背もたれに体重を預けて、ふうと短い溜息をついた。
いつも通り大混乱を見せた会議は一端終結し、彼女を含めた会議参加者は各々解散しながら、ああ今日もまたまとまらなかった、と苦笑交じりに呟き合った。同じ家に暮らす兄と共に帰ろうと、隣に座っていた兄に声をかけようとするのと同時に、兄であるスイスは他国によって呼びとめられてしまった。あ、と声を漏らすリヒテンシュタインに兄は少し困ったように眉を下げ、少し待っていてくれ、と言いながら彼女のつややかなきんいろの髪をぽん、と一撫でした。
すぐに戻ってくる、と、普段ほとんどが怒ったような表情をしているスイスが、リヒテンシュタインにのみ向けるほんの少しだけ穏やかな顔で口元を微笑ませ、彼女はそのことが嬉しくて幸せで、一度だけ大きくうなずいてその背中を見送った。おまちしておりますわ、おにいさま。その言葉の裏に、はやくかえってきてくださいまし、を忍ばせて、リヒテンシュタインは手を振った。
ざわめきが波を作ってリヒテンシュタインの前を通り過ぎ、一瞬の静寂が訪れたかと思えばまた硬い手触りの声が波のように転がっていく。しばらくその人の流れをぼんやりと見つめていると、彼女の座るソファーの横にとすんと腰掛ける男がひとり。
「……あら、ドイツさん」
「ん、……リヒ姉さん? スイスと先に帰ったのではなかったのか?」
「お兄さまは何かご用があるようで、私はお待ちしているところです。ドイツさんこそ、どうなさったんです?」
彼も、兄を待っているのだと答えた。
ドイツには兄がひとりいるが、リヒテンシュタインたち兄妹と違い、彼はいつもひとりで会議に出席している。亡国であり現在は世界に対する影響力を持たない、兄であるプロイセンが会議に現れることはほとんど皆無と言ってもいい。
それが、今日は何が起きたのかただの気まぐれか、ドイツの後ろをひょこひょこと歩いて会議場にプロイセンが現れた。表面上誰も気にすることなく、いつも通りの滅茶苦茶な会議であったが、会議が終わると同時にプロイセンは悪友や知人たちに囲まれてあっという間にもみくちゃにされてしまっていた。珍しいねプロイセンが来るなんてどんな気まぐれ起こしたの、なんて騒ぎ立てる他国にうるさいうるさいと喚き、弟に少し外で待ってろ、とだけ叫んで、手始めにフランスの首を絞め始めたプロイセンをドイツはため息をつくことで返事をすることしかできなかった。
会議室の外の廊下に設置されたソファーに座り、手にした缶コーヒーを啜ってため息をつくドイツに、リヒテンシュタインは首をかしげてくすくすと笑った。
「ほんとうに、ドイツさんはお兄さんがお好きですね」
「……え、? なんだ突然」
「いえ、だって。先にお帰りになってもいいじゃありませんの。お兄さんと一緒に帰りたくて、待っていらっしゃるのでしょう?」
「……あなたも、ひとのことは言えんと思うが」
「まあ、生意気を言うようになられましたね。わたしのほうが、おねえさんですのに」
む、と拗ねたように唇を少しとがらせ、リヒテンシュタインはドイツをぎゅっと睨みつける。ソファーのシートに手をつき、隣に座るドイツの顔を覗き込むようにぐっと身を乗り出す彼女に、ドイツは体を引いて、すまん、と呟いた。
怒ったような表情をすぐにほどき、リヒテンシュタインは口元を押さえてくすくすと笑う。体を引いたドイツに手を伸ばし、整髪料で固めたきんいろの髪をぽすぽすと叩くように撫でて、謝らないでくださいまし、と笑った。
「本当のことですものね。ええ、わたし、お兄さまが大好きですもの。ドイツさんだってそうでしょう?」
面と向かって、本人以外から兄を好きかなんて聞かれたことはほとんどないドイツは、リヒテンシュタインがにこにこと笑いながら問いかけてくる言葉に何と答えていいのか分からなかった。手の中で温くなり始めたコーヒーを、照れや戸惑いを誤魔化すかのようにひとくち啜り、むう、と唸った。そのドイツの行動すら彼女にはほほえましいものでしかなく、リヒテンシュタインはにこにこと笑いながらドイツとの距離を縮めてまた彼の頭を撫でた。
「おかわいらしいドイツさん。昔から変わりませんのね、お兄さんが大好きなところも、照れ屋でおかわいらしいところも、何も変わっていません」
「こ、子供扱いはよしてくれないか。もうリヒ姉さんよりもずっと背も高くなった、のだし……」
「まあ、ふふ……ほんとうに、おかわいらしい」
目元を朱に染めて俯いてしまったドイツの額に、リヒテンシュタインはさくらいろの唇をちゅっと落としてくすくすと笑った。途端、ドイツは慌てて顔を上げてキスされた額を押さえ、じりじりとソファーの上を後ずさる。中身のなくなったコーヒーの缶が、ソファーの足元を転がる。顔を真っ赤にしてぱくぱくと口を開閉させる大きな年下の親戚に、リヒテンシュタインは自分でとった行動に自分自身で驚いて彼女も顔を赤らめた。
「いやだ私ったら……!ドイツさんがあまりにもおかわいらしかったから、つい……」
ソファーの上で、体の大きな成人男性と少女の如き小柄な女性が顔を赤くして俯き合い、しばらくの無言が続いた。両者とも顔の火照りが少し引いたころ、同じタイミングでちらりと顔を上げたふたりの視線がぶつかる。一瞬無言のまま見つめ合い、次の瞬間にはふたりともがくすりと笑いをこぼしていた。
「……リヒ姉さんは、俺のことを子供扱いしすぎだ」
「ええ、だって私のほうがおねえさんですもの。ドイツさんはいつまでたっても、私にとっては可愛い弟のようなものです。おとなしく甘えてくださいまし」
ね、と首をかしげて笑うリヒテンシュタインの手をとり、ドイツは少し眉を下げて困ったように照れたように笑いながら、その指先にちいさくキスをした。
「はい、リヒ姉さん」
「まあ恥ずかしい子」
「あなたには言われたくないな」
「ほんとうに」
顔を見合わせて、大きな弟と小さな姉はくすくすと笑い合った。
「ヴェスト」
「リヒテンシュタイン」
ほぼ同時に、反対側から声がかかる。互いの兄の声がするほうに振り向いて、ふたりとも慌てて立ち上がった。
「兄さん!」
「お兄さま!」
ドイツはプロイセンの元へ大股で歩み寄り、リヒテンシュタインは小走りでスイスの元へ駆け寄る。待たせたことに対する兄からの謝罪を笑って許し、さあ帰ろうと笑う兄の手をとったところで、ふたりは振り返って互いの名を呼んだ。
「ドイツさん、また今度」
「ああ、リヒ姉さん」
兄の手をとっていないほうの手でひらひらと互いに手を振り、ふたりとも兄と共に会議場を後にした。
のちに兄から、何を話していたのかと聞かれた二人の答えは、
「内緒だ」
「内緒です」
end.
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独リヒのような、リヒ独のような、瑞リヒ・普独前提の独+リヒのような。