睦言の裏表
全く思い出せそうにもないことに呆れを覚えながら、肺の奥まで吸い込んだ紫煙を何かを吹っ切るように思い切り吐き出す。
どうでもいいことだ。
始まりなんて思い出せなくても、現実としてここにあるものが消えるわけではない。
消えてくれると言うのなら喜んで記憶でも何でも手放したいところだけれど、何を思おうと何を忘れようと隣に眠る男は結局隣に在る。
それが現実で、事実だ。
何でこんなことをしてるんだとかそんなことを考えたところでどうせ結論なんてものに辿り着いた試しがないのだから、放棄してしまうべきなんだろう。
そもそも、考えるのは苦手なのだ。だからもう、どうでもいい。
「シズちゃん」
「あ?起きたのかよ」
唐突に声を掛けられて、言われるよりも先に煙草を灰皿へ捨てる。前に寝煙草は危ないよと尤もらしいことを言い出した臨也と煙草の取り合いになった挙げ句ベッドを焦がしたことは記憶に新しい。(そして、当然その焦げ跡は未だに残っている)
「あいしてる」
「・・・・・・は?」
「って言ったら、笑う?」
「何言ってんだ、テメェ」
馬鹿馬鹿しいとか吐き気がするとか、そういう返答なら用意が出来そうだったけれど、臨也の言ったように笑う気にはさらさらなれそうにもない。
その答えを予想していたらしい臨也は、むくりと起きあがると口の端を持ち上げて肩越しに振り返りながら、笑みを見せる。
「俺が君を愛するのは、おかしい?」
ことりと首を傾げた格好で今度は何も答えずにいる静雄をしばらく見つめていたかと思えば、突然くすくす笑い出す。
答えが返らないことを、彼はどう解釈したのだろう。
「あぁそうだね。俺は君が大嫌いだと言い続けてきたんだ。これは、当然の結果だ」
何処か芝居がかった口調で、遠くを見つめながら臨也は笑う。
いつもの狂気じみた蘊蓄を語るような声とは違う、聞いたことのない声と、見たことのない表情。
誰だこれは、と思う。
目の前の男が、理解の範疇を超えた生き物に見えた。
元々少しも理解なんて出来ない男だったけれど、それでも一番近い存在は自分だろうと思っていた。それなのに、今目の前にいる男のことなんてさっぱり分からない。
語られる言葉の意味も、向けられる表情の意味も、何ひとつ分からないのだ。
「それでも好きだなんて言ったところで、笑うより他にないね。これほど笑える喜劇を俺は知らないよ」
「臨也」
「ねぇ、じゃあ殺したって構わないよね」
「あ?」
突然くるんと身体の向きを変えると、静雄の上に跨がって細い両手を首に巻き付ける。テメェは何がしたいんだと問うよりも前に臨也はもう一度殺してもいいでしょうと首を傾げた。
意味が分からない。
「君が嫌う俺なんて、死んでも構わないだろう?」
「言ってることとやってることが滅茶苦茶じゃねーか」
月に照らされる顔はそれを理由にするには余るほど真っ青で、いつもはもっと作り物めいて見える肌が急に触れれば温かい人間のものだったことを思い出す。
どうしていきなり殺されかけなければならないのかは分からないけれど、臨也の様子がおかしいことだけはようやく分かった。
「死にたいのかよ」
「違うね」
じゃあ何だ、問いかけた言葉が夜闇に異様に響く。
人の上に馬乗りになって首に手を回しているくせに、歪んだ微笑の浮かぶ人形のような顔をして、何がしたいんだ。
殺したいのか、それとも殺されたいのか。この場において選択肢がそれ以外にあるとは思えない。
「・・・冗談じゃない」
「は?」
「君が俺の預かり知らない所で大怪我を負うなんて・・・俺の知らない内に君が死んでしまうなんて、冗談じゃない!」
首に回されていた手がいつの間にか肋骨の辺りに巻いてある包帯を掴んでいて、突然理解した。豹変の理由も、泣き笑いにも似た表情の意味も。
あぁ何て分かり辛い男だろう。
考えるのは苦手だと知っているのだから、もっと分かりやすく口にすればいいものを。
「シズちゃんを殺すのは、俺だよ。そしたら追いかけるって決めてるんだ」
知るか、と応えても良かったのだけれど。
何となくそれを口に出すのは憚られて、もうどうでもいいやと手を伸ばして作り物みたいな顔に触れる。
「・・・だから、勝手に死ぬなんて、許さない」