夜離れ
(…このまま、死ぬのか)
重たい石を抱かされて、どんどん南波の身体は沈んでいく。しかし、南波は石を捨てることは出来なかった。何故か手放したくないと思った。
(こんなことになるなら、最後に…)
人の頭ぐらいある石を抱きしめて、南波はゆっくりと海の底へと沈んでいく。不思議と怖くはなかった。…と一緒なら。
覚醒した南波の目に入ったのは見慣れた天井と、背中にあるのは湿気た煎餅布団。暗い海の底ではなく、いつもの自分の部屋だった。
(…夢か)
何か酷く縁起でもない夢を見た気がする。逃げる夢のかけらを追って、南波はげっそりとため息をついた。
(…お前のせいか)
仮にもサブマリナーが『沈む』とは、縁起が悪すぎる。しかも、二人でと来た日には。
南波の胸に縋りつくようにして眠る溝口の短く刈り込んだ頭を叩いてやろうかと思ったが、伏せた目元に色濃く浮かんだ影を見つけて思いとどまった。
元々溝口の寝つきは良くないほうだが、ここ数週間は不眠症に近い状態らしい。それが南波の傍でなら眠れるというのも不思議な話だが…
(ああ、そうか)
溝口の安眠の素は、南波の心音らしい。
いくら溝口が小柄でも成人男子の頭は重いし、この暑さで男二人がくっついて寝るには辛いのだが、南波の左胸に頭を預けて静かに寝息を立てる溝口を起こすのは可哀想でどうしたものかと思案に暮れた。
「…悪い、重かったろ」
南波の気配で起きたのか、顔を上げた溝口がぼそりと詫びた。
「いいって。寝てねえんだろ、もう少し寝てろ」
手を伸ばして唯一の冷房である年代物の扇風機のスイッチを入れると、少しは室内が涼しくなる。
「あ、うるさいか?」
「…大丈夫」
家主の南波は慣れているが溝口はそうでもないだろうと気遣ってやると、小さく首が振られた。
「なあ…お前の胸の音、録音していいか?」
「何に使うんだっつーか、直に聞きに来ればいいだろう」
「うん…」
もう一度南波の胸に顔を寄せた溝口が、歯切れ悪く何かを呟いた。
(……?)
小さな小さな呟きは『もうこれなくなるから』、と南波の耳には聞こえた。
「…お前、何隠してる?」
「何も」
逃げるように背を向けた溝口の肩を掴んで、布団の上に押さえ込む。
「嘘付け」
「…離せ」
溝口が頑固なのは長い付き合いで良く知っている。どれだけ南波が迫ったところで絶対に口を割らないだろう。
「離さねえ」
馬乗りになったまま、噛み付くようなキスを落とす。
手を離したら、溝口がどこか手の届かないようなところに行ってしまうような気がして南波は腕の中で跳ねる身体を抱きすくめる。
普段口ではただの腐れ縁だの、好奇心からとか照れ隠しに酷いことを言ってしまうが、 南波にとって溝口は同じものが聞こえる耳を持つたったひとりの存在で、肌を合わせるのも身体を重ねるのも他でもない溝口だから。
…だから、溝口が自分から離れてしまうことが南波には怖い。
「他に好きな奴、出来たのかよ」
「違…っ!」
優しくしてやりたいと思うのに、自制が利かない。愛撫というには手荒すぎる南波のやり方に溝口の声が震える。
「だったら、何であんなこと言うんだ…っ」
こんな暴行まがいのセックスを許してくれる溝口は自分を愛してくれているのだと、勘違いしてもいいのだろうか。
どこにも行くな、と溝口を抱きしめる腕にありったけの想いをこめた。
再び南波が目覚めた時には既に部屋に溝口の姿はなく、翌日帰艦してからも出港準備のあれこれで忙殺されて隣のやまなみに居るはずの溝口と顔を合わせることは出来なかった。
(…戻ったら、ちゃんと話をしよう)
南波はそう思った。…まさか、こんなことになるとは思わずに。
-1988年9月28日 犬吠崎沖にて やまなみ 圧潰。
南波は自分の耳で、それを聞いた。