君におやすみと囁いて
「ヴェストの奴、またか」
リビングから響く物音に、プロイセンは顔を顰めた。連日、ドイツは仕事で夜遅くまで起きている。全く、休む時は休めと言い聞かせているのに。
彼は、部下達には決まり通りの休みを取らせていても、自分自身はいつだって無理をするのだ。
プロイセンはがしがしと頭を掻いた。一体どうしたら言う事を聞いてくれるのか。小さな子供では無いのだから、言葉にするだけで通じる。けれど、自分で考え行動出来る、良い歳をした大人であるからこそ、聞き入れて貰えない事もある。難しい問題だ。
彼は暫し考え込んでいたが、ふと思い出して部屋の隅に置いてあった袋を開けた。以前に日本から貰って、忘れていた物。
プロイセンはそれを持って、ドイツの部屋へと向かった。
念の為ノックをしてから扉を開ける。けれど、部屋には誰も居なかった。リビングにノートパソコンを持ちこんで、仕事をしているのだろう。
「あぁ、今のうちに」
プロイセンは準備を整えると、再び部屋を出た。
――君におやすみと囁いて――
「ヴェースト」
呼ばれ、ドイツはぎくりと肩を竦ませた。リビングのソファに掛けてノートパソコンのキーボードを叩いていた手が、止まる。
「に、兄さん。まだ起きていたのか」
慌てて振り返ったが、兄に半眼で見つめられ、ドイツは気まずさに視線を反らした。
「おいこらヴェスト。俺様がなんて言ったのか忘れた訳じゃねぇよな?」
さっき、部屋に戻る前にも言われたのだ。今日は早く寝るように、と。少なくとも、日付が変わる前には、という事。そして時計の針は、もう少しで短針が真上に来る状態だ。
「その、もう少し。もう少しで終わるから、これが終わったら」
「言い訳は聞かねぇ」
プロイセンはつかつかと歩み寄ると、反論を許さないままドイツの手を取った。
ノートパソコンはそのまま閉じられる。電源を落としたわけではないし、開けばまた続きから作業が出来るだろうが、問題はそこでは無い。
「あっ、兄さんっ」
制止の声は全て聞こえない振りをしている。プロイセンはそのまま言葉も無く、彼を部屋へと引っ張っていった。
力は自分の方が強いのだから、抵抗すれば簡単に振り解けるだろう。けれど兄の態度は、怒っているようにしか見えない。これ以上機嫌を悪化させると後が怖いので、素直に手を引かれて歩いている。
扉を開けて部屋の明かりをつけられると、ドイツは目を見開いた。
「あ……」
いつも枕が置いてある場所には、枕と同じ程の大きさの、ふかふかした可愛らしい羊。
「お前そういうの好きだろ」
言いながらベッドに押し込まれ、ドイツは困ったように眉根を寄せた。
「日本から貰った枕だ。よく眠れるらしいぜ」
暫し逡巡していたが、そっとその柔らかな生地に頬を寄せてみると、微かにラベンダーの香りがした。中に、サシェが入っているのだろう。
「ほら、今日はもう寝るぜ!」
そう言って、プロイセンまでベッドに上がり込んできた。
「えっ、兄さんもここで寝るのか?」
「当たり前だろ。お前がまた抜けだして仕事始めないように、監視だ、監視」
「ぐ……」
ドイツは小さく呻いた。どうやら、見透かされていたらしい。ベッドの反対側は壁になっているから、プロイセンを乗り越えないとベッドからは出られない。そして、仮にプロイセンが先に眠ろうが、気付かれずにベッドから抜けるのは不可能だろう。ドイツは観念して溜息を吐いた。
「分かった。大人しく寝るから……」
「分かれば良いんだ」
満足げにプロイセンは頷いた。白い歯を見せて、笑う。
「あぁでも、せめて、目覚まし時計を取ってくれないか。明日起きられなかったら困る」
「そうだな。ちょっと待ってろ」
そう言ってプロイセンは一度ベッドから降り、目覚まし時計を片手に戻って来た。戻りながら時刻をセットし、サイドボードにそれを置くと、再びベッドに入り込んだ。
「ちょっと狭いな」
「当たり前だろう、一人用なんだから」
「んじゃ、もっとこっち来いよ」
ドイツの肩を抱き寄せると、上掛けを引っ張り、二人を包み込むようにして掛けた。
「眠れそうか?」
「いや、そう言われても簡単に眠気は……」
「仕方ねぇなー、俺様が羊を数えてやろう」
「はぁ?」
子供じゃあるまいし、とドイツは眉根を寄せた。
「別の方法が良いか?」
プロイセンはそう言って口の端を吊り上げ、胸元に手を伸ばしてきた。ドイツはその手を抑えると、
「いや、いい、羊で良いからっ」
慌てて首を振り、手を押し戻した。冗談ではない、嫌というわけではないがそんな事をしていたら逆に眠るどころではなくなってしまう。
「じゃ、ちゃんと寝るんだからな?」
「あぁ……」
渋々頷くと、プロイセンは羊を数えはじめた。
「羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹、羊が四匹。羊が――」
こんな状態で本当に眠れるのだろうか。眠気はさっきから、全く無いのだ。
けれどこのままだと、自分が眠るまで数えるのを辞めないのではなかろうか。どうしたものかと、思案に暮れる。
しかし彼もまた、言い出したら聞かないのだ。音をあげるまで待つしかないかと結論付け、仕方なく目を閉じてじっとしている事にする。
静かに、一定のリズムを持って紡ぎだされる言葉。それと同時に、優しく自分の頭を撫でる手の平。そしてぴったりと抱き寄せられた胸から伝わる、体温。
「……温かい」
ぽつりと、ドイツは呟いた。優しく包み込む感覚が、心地良い。もう少しだけ、兄の胸に寄り添った。
「羊が、……。ヴェスト?」
数えるのに夢中になっていたら、腕の中の弟は、規則正しい調子で肩を上下させている。いつの間にか眠りに落ちたようだった。
「……可愛いな」
自分よりも体躯の良い弟だけれど、こうして見る寝顔はあどけない。幼い頃と変わらず、自分にとっては唯一の、最愛の弟なのだ。
「ほんっと、安心しきった顔で寝てるな」
プロイセンは苦笑した。
「無防備っつーかなんつーか。あんまり隙だらけだと、羊の皮捨てて狼になるぜ?」
指先で頬をつつき、薄く開かれた唇を指先で辿った。深く眠っているようで、全く起きる気配はない。口ではなんだかんだと言いながら、疲れは溜まっていたのだろう。
「ま、でも今はゆっくり眠れ。……おやすみ、ヴェスト」
プロイセンはそう言って頬に唇を寄せ、自らも瞼を下ろした。
兄らしくない自覚はあるし、無理をさせている原因の一端は自分だ。今の自分には力も無く、このぬくもりを分け与えるくらいしか出来ないと思う。けれど、少しでも安らいでくれるのなら、何度でも、君におやすみと囁こう。
束の間の休息を。幸せな夢を。そう、願って。
作品名:君におやすみと囁いて 作家名:片桐.