路地裏の青年と少女
う、と息が詰まり、思わず口を覆うと咳が出始めた。逃れる術の無い苦しさに大人しく安住していたらふいに、口を覆った掌に暖かな感触が付着した。それで呼吸は通常になって、血のついた掌を見下ろす心は無感動だった。
これが初めてではなかったから。
「なんとか隠し通せないものかねェ……」
誤魔化しきれるわけがない。わかってるなら俺はいつまでこうして逃げ続けるのだろう。大人しく両手を挙げて降参して、全て諦めて成り行きに任せれば…そう、それが最善の選択だ。周囲にかかる迷惑も最小限で済むし誰かを巻きこむこともない。
これは人に伝染する病だ。
だから、少なくとも今のままでいいはずがない。そう思いながらも、俺は真っ当な行動を起こす気になれなかった。
「土方さんは鋭いから、ひょっとするともう気付いているかもしれねェや。近藤さんだって、結構人のこと見てるからなァ」
気付かれれば俺はこの仕事を辞めさせられるだろうしどっかに隔離されて静養なんてことにもなりかねない。
「嫌だなァ」
これはきっと、死病だ。
路地裏。暗く、狭く、取り巻く建造物はどれも汚らしくそびえ立って圧迫する。ただでさえ狭い場所だというのに過剰な抑圧感。冷たい壁に背中を預けて、いつものように笑った。死にたくない、というのじゃなくて、ただ俺は、病気にじわじわと殺されていくのが嫌だと思う。こんな仕事をやってるからにはいつか戦いの中で死ぬのだとばかり思っていたから。誰かに斬られるなんてのもそれはそれで嫌ではあるけれど、これまで俺はそうやって何人もの人を斬って殺してきたのだから、同じように誰かに殺されても仕方がないし覚悟をしていた。
けどこんな死に方は覚悟していない。ついでにこんなに早く死ぬとも思わなかった。
誰かが俺を殺してくれればいいのに。
そう思ったら、あいつが現れた。
「……その血」
傘の下から青い視線が赤い俺の右掌に注がれる。唐突な出現に俺は虚を突かれたがそれを悟られたくなくて何か言おうと口を開きかけて、そこでヤバいと感じた。こみあげる。堪える? 無理だ。せめてもの見栄で顔を背けて口を覆った。人もいない静かなこの空間で咳は必要以上に響いた。血液が水滴となって地面に落ちる音さえも、きっとあいつに届いてしまった。
正常な呼吸が戻っても俺たちは少しの間何も言わなかった。視線さえも外していた。おそらく恐怖と呼ぶべき感情が背中の辺りを這っている。おかしい。ついさっきまでそんなもの感じていなかったのに。こんなふうに追い詰められてはいなかったのに。弱音なんて絶対に吐きたくないのだけど口を開いたら零れそうな気がして、あいつがこのまま立ち去ればいい、と思った。でも同じ位の切実さで去ってほしくないとも思った。ここに居てほしい。でないと崩れ落ちそうだ。背を向けないでほしい。置いて行かないでほしい。近づかないでほしい。こっちを見ないでほしい。何か言ってほしい。何も言わないでほしい。いったいどれが最良なんだ。そして、最悪は?
今、この瞬間に世界が終わればいい。或いは俺が終わってしまえば。終わったあとのことはもうどうでもいいから。終われ。終われ終われ。そうか。俺は、終わらせてほしいんだ。あいつが俺に向けて引き鉄を引いてくれれば、それで――――。
「死ぬのか?」
小さな声が、思いのほか反響した。路地裏。空が狭く、遠く、薄く、ついでのように青い。本来こんな場所が似合わない年齢であるはずの少女は、何故か妙に馴染んで俺と対峙する。俺も顔を上げる。不安そうな表情に見えるのは気の所為だろうか。
「………さァな」
呟いて、皮肉のような笑みを唇に。それが精一杯の強がりだった。けれど。
「死なないヨ」
声に、強がりはあっけなく崩される。
「死ぬわけないヨ。お前が、お前みたいな、奴が」
震えた声がほとんど消えかかるように、死ぬわけないアル、と締めくくった。 そうしてあいつは俺に視線を据えたまま微動だにせず、その丸い両目から涙を零し始めた。
「お前は、殺したって、死なないような奴、なんだ、から、だから」
思考が奪われてゆく。涙を溢れさせる双眸から目を離せない。これをどう言えばいいだろう。意外? 予想外? とにかく、俺は驚いたのだ。だって俺たちは、会うたびに決闘してるような天敵みたいな間柄で、仲が良いなんてとても言えない関係で……特別に感じてたのは俺の方だけだったはずで……それなのに今、この場面で、俺の前で、こいつが憚ることもなく涙を見せるなんて。そんなこと。
「…………」
音が無い。世界から俺たちとこの汚い路地裏だけが切り取られた。空が遠くて隔絶感。俺は動揺している。動揺する俺を冷静に観察する何者かの嘲笑を聞いたような気がした。
涙はとうめいだ。じっと見つめ続けてわかったことといったらそれくらい。なんだか苦しいと思った。さっきのような暴力的な種類のものとは違う、刹那的な感じのする苦しさが、胸の奥のほうに。
「なんであんたが泣くんだィ」
「お前は、何笑ってんだヨ」
開いた唇は少し震えて、彼女は酷い泣き顔になって、自分でもそうとわかったのか、ちょっと俺を睨んでから顔を地面に向けた。
そうか。俺はこの期に及んで笑っているのか。
「むしろ泣きたいくらいなんだけどなァ」
下を向く泣き顔に手を伸ばしかけて途中で止めて引っ込めた。
「帰りなせェ」
促したつもりの言葉は届かない。傘の下であいつは動かない。
ぱらぱらと、涙が落ちてゆく。
情けないことに俺はそれを眺めることしかできねェんだ。受け止めることも、ぬぐってやることも、できねェんだ。
そんな余裕がないんだよ。自分のことで精一杯なんだ。
だから、あんたは彼らの元に帰るべきだ。あの二人は今俺があんたにしてやれないこともしてくれるから。きっと温かい手を差し伸べるから。
ごめんな。口は閉ざしたままで、そう呟いた。
血のついてない左手で、俺はあいつの腕を掴んで引っ張って路地裏を抜けるべく歩き出した。
死ぬのが少し怖くなった。